第385話

 今目の前にいるのは、話には聞いていたノエルがかつてイヴという名前で生活していた頃、彼女を私欲のためだけに傷付けた元彼。

 その事実を知った周りの人たちは、それをどう受け止めていいのか困惑していた。

 僕だって事情を知らなかったなら、恋人関係にあった二人に口出しなんて無理だろうから仕方ない。


「ずっと探してたんだよ。俺の計画を邪魔したこいつと、俺を裏切ったお前をな」


 元彼さんは『こいつ』と言いながらノエルを見て、『お前』と言いながらイヴを見た。

 彼は双子で入れ替わっていることを知らない。だから、現在のノエルがかつて自分のことを通報した『ノエル』だと勘違いしているのだろう。

 本当はそっちが本物のイヴだと言うのに。


「ようやく自由の身になれた俺は、まず何をしようか考えたさ。でも、いくら悩んでもお前たちのことしか浮かんでこないんだよ」

「……イヴちゃんに逆恨みしてるの?」

「は? これは正当な恨みだろ。お前さえいなければ、イヴは今も俺のもので――――――――――」


 男の言葉が終わるが早いか、周囲にペチンとビンタの音が響いた。

 叩いたのはノエル……ではなくイヴ。その目にはうっすらと涙が浮かんでいて、彼女にしては珍しく怒っていることが伝わってくる。

 ノエルの名を侮辱されるということは、かつての自分と今の姉との両方を馬鹿にされるということ。決して他人事でも自分事でもないのだ。


「ふざけないで。あなたみたいな人、友達にだってなりたくない」

「……なんだよ、イヴ。随分とおしゃべりになったな、あの頃はずっと頷いてばかりだったってのに」

「昔の私と一緒にしないで」

「好きだって言ってくれたお前はどこに行ったんだ」

「っ……うるさい!」


 男が挑発的な表情を見せた瞬間、イヴはカッとなってしまったのか反射的にもう一度ビンタをしようとする。

 しかし、それは彼の作戦の内だったのだろう。あっさりと手首を掴んで止められると、返り討ちのビンタをされて転んでしまった。


「逆らっちゃダメだろ、逆らっちゃ」

「…………」

「そう、それでいい。お前は黙って言うことを聞いてればそれでいいんだよ」


 最低だ。恋愛感情が分からないからと他人の恋愛に口出しをする権利がないと思っている僕でも、明らかに男の恋愛観が歪んでいることは分かる。

 いや、訂正した方がいい。あれは恋愛感情なんて含んでいない、単なる意地の汚い支配欲だ。

 そんな俗に言う『クソ野郎』に友達が傷付けられる様を見ているだけで、今まで感じたことの無いような怒りが湧き上がってくる。


「さてと。今度はお前だよ、ノエル。ちゃんと反省して土下座までしてもらわないとな」

「わ、私は悪いことなんてしてない! おかしいのはそっちだもん!」

「誰がおかしいだと?」

「好きな人を怖い目に遭わせようなんて思えるのは、どう考えてもおかしいよ! そんなことで好きになってもらっても、少しも嬉しく思えない!」

「……気持ち悪い正義感語ってんじゃねぇよ。今すぐアイドルなんて続けられないようにしてやる」


 男はそう言いながら拳を握りしめると、殴られることを覚悟したノエルはギュッと目を瞑った。

 周りは誰も助けに入ろうとはしない。いくら危険な目に遭っているのがアイドルだからと言って、きっと普通はみんな思ってしまうのだろう。

 『あれが自分じゃなくて良かった』と。


「ごふっ?!」


 数秒後、殴られる音がその場に居た全員の鼓膜を震わせた。その直後には苦しそうに悶える声も聞こえてくる。

 声の主はノエルでもイヴでもない。僕が殴ったのだ、男のみぞおちを。


「……誰だよ。邪魔してんじゃねぇよ!」

「人を殴るって結構痛いんだね。紅葉くれはのこと、尊敬しちゃうよ」

「野次馬のくせに割り込んでくんな」

「野次馬じゃないから割り込んだんだよ」

「はぁ? じゃあ、お前はイヴの何だってんだ?」

「友達に決まってるじゃん」


 そう言いながら右手を振って痛みを飛ばしていると、何がしゃくに触ったのか男はこちら目掛けて殴りかかってくる。

 幸いにも僕はドッチボールで避けるのだけは上手い。みぞおちへのダメージで少しスピードの落ちているパンチなら、何とか回避できなくもなかった。


「アイドルって立場があると、ノエルもやりづらいでしょ。だから僕が代弁してあげる」

「え、瑛斗えいと君……」

「全部僕が思ってることだけど、きっと同じようなことを言いたいと思うんだ」


 その言葉にノエルが頷いたのを確認した僕は、深呼吸をしてから男の方へと顔を向けると、次のパンチを避けてから思いっきりつま先を踏みつける。

 紅葉のを見よう見まねでやっただけだけれど、当たり所が良かったのかそこそこ効いたらしい。

 思わず声を上げてよろける男を、僕は胸の中でモヤモヤと滞留し続けていた怒りやら憎しみを込めて睨みつけるのだった。


「その穢れた目でイヴを見ないでくれるかな」

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