第374話

 準備の意味を悟ってから数秒後、僕は頭から水を被ったことで全身びしょ濡れになっていた。

 いや、僕だけじゃない。紅葉くれは麗華れいか、ノエルとイヴも同じように濡れてしまっている。


「あ、あれ、濡れてない……?」


 ただ、近藤こんどうさんは無事だった。だって、紫帆しほさんが準備をしていてくれたから。


「すーちん、大丈夫?」

「あ、うん。平気だけど」

「よかった、今日透けそうな服着てたから心配してたんよ」

「さすが紫帆、出来る女!」


 水飛沫みずしぶきが上がった瞬間に紫帆さんが取り出したのは、カバンの中に入れていた折り畳み傘。

 2人も足元は濡れてしまったが、髪や服は無事だ。おかげで近藤さんも恥ずかしい思いをしなくて済んだね。


「他のみんなは守り切れなかったんやけどな」

「でも、気にしてないみたいだよ?」

「そうやね、さすがはイルカショーやわ」


 たとえ外を歩けないほどに濡れたとしても、イルカにかけられた水なら気にならないというもの。

 着替えをどうしようかなんて考えはとりあえず置いておいて、僕たちは舞い続けるイルカたちに見蕩れて拍手をし続けるのだった。

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 それから15分ほどして。


「で、これどうするのよ」


 ショーの余韻に浸った後、紅葉の第一声がこれである。先程も言ったが、今のように水が垂れる状態では外を歩けない上に車にも乗れない。

 かと言って着替えはホテルにしかないため、戻るには車を使わなければならないという矛盾が発生しているのだ。


「お嬢様、ショーは楽し……どうされたのですか?」

「水がかかったのです。着替えをしたいのですが」

「こんなこともあろうかと準備しております。女性の皆様から、中でお着替えください」

「私たちの分もあるって事?」

「はい、もちろんです」

「……出来る女がここにもいたわね」


 安堵のため息をつきながら車に乗り込んでいく4人。僕がその背中を眺めていると、瑠海るうなさんが何やら親指を立てるのが見えた。

 彼女の視線を追ってみれば、車の陰に隠れている紫波崎しばさきさんがいるではないか。

 なるほど、紫波崎さんが着替えが必要なことを伝えてくれたから、瑠海さんは着替えを準備出来たんだね。それにしても手際がよすぎるけれど。


「ちなみになんだけど、僕の着替えもあるの?」

「女物であれば」

「あ、無いんだ」

「冗談です、ありますから」

「よかった。でも、サイズは知らなかったんじゃ?」

「見れば身長くらい測れます、メイドですので」

「じゃあ、紅葉の身長は?」

「152cmです」

「あ、1cm伸びてる」

「伝えてあげてください、喜ばれますよ」

「そうしようかな」


 瑠海さんが「はい」と頷いたところで、会話がピタリと止まってしまう。

 近藤さんたちは少し離れたところでイチャついているし、何か別の話題を出すべきかと首を捻ってみるが何も思いつかない。


「どうしたんです、車を見つめて」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「寒いならもう着替えに入ります? お嬢様方なら許して頂けそうですので」

「それはやめとこうかな」

「せっかくのチャンスだと言うのに」

「紳士的じゃないからね」

「……なるほど。お嬢様が好意を寄せられる理由が何となくわかりました」


 彼女は「瑛斗えいと様はお優しいですね」と呟くと、何もすることがないからか空を見上げ始めた。

 僕も同じように空を見上げていると、白い雲の塊がゆっくりと右から左へ流れていく。


「ハンバーグみたいな雲ですね」

「そうかな」

「……持ち帰り、今なら出来るでしょうか」

「レストランのハンバーグのこと?」

「とても美味しかったので」

「着替え終わったら寄ってみよっか」

「良いのですか?」

「僕は運転してもらってる身だからね。どうせなら瑠海さんにも最大限に楽しんで欲しいし」

「……ふふ、やっぱりお優しいですね」


 瑠海さんが笑顔になったような気がしてチラッと横目で見てみたけれど、既に口角は元の位置まで下がってしまっていた。

 いつかは見せてくれるかな、満面の笑みを。僕はそんなことを思いながら、再び空に視線を戻すのだった。


「あ、イカリングみたいな雲だ」

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