第371話

 瑠海るうなさんが御手洗を済ませた後、僕たちは深海魚たちを見ながら次のエリアへと歩を進めた。もちろん、紅葉くれはとは手を繋いだまま。


「小さい水槽が沢山ありますね」

「『深海の小さな生き物』って展示だからね」

「本当に小さいのが沢山いるよ!」


 子供のように水槽を覗き込みながら、興奮が体に現れているのかお尻をフリフリするノエル。

 その様子には和むけれど、のえるたそのファンとしての僕は見てはいけないものを見たと目を逸らしてしまう。

 イヴがお叱りのおしりペンペンをしてくれて良かったよ。叩かれることが満更でもない感じだったから、この双子の将来が心配ではあるけれど。


「紅葉、見て。赤ちゃんだから色が薄いよ」

「……見えないわよ」

「あ、ごめん」


 不満そうに頬をふくらませる紅葉に謝ってから、僕はそっと彼女の体を抱えて上側の水槽を覗かせてあげる。

 そのままその左の水槽へ移動して、終わればまた左の水槽へ。いくら軽いと言っても、さすがに腕が取れるかと思うほど辛かった。


麗華れいか、交代してくれない?」

「私が東條とうじょうさんを抱えるのですか?」

「嫌ならいいんだけど」

「東條さんが良ければ私はやりますよ」

「……仕方ないから許すわ」

「ふふ、本当は見たいんですよね♪」


 ツンツンしてしまう紅葉の頬をウリウリとやってから、彼女は「いきますよ」と一気に持ち上げる。

 あんな華奢な体のどこにそんなパワーがあるのかはいつも不思議に思っていたけれど、僕よりも断然安定して持ち上げちゃってるよ。


「お嬢様、変わりましょうか」

「いいんですよ。たまにはこういうのも」

白銀しろかね 麗華れいか……」

「これならいつでも床に投げられますし」

「し、信用しかけた私の気持ちを返しなさい!」

「冗談です。せっかくの水族館で見れないなんて悲しい気持ち、友人には味わせたくないので」


 そう言いながら笑う麗華からは、策略だの偽善だのは感じ取れない。本心から出た言葉であることは疑いようがなかった。


「……がと」

「何か言いました?」

「ありがとうって言ったのよ」

「ふふ、どういたしまして。ライバルではありますが、勝負に関係ないことは頼ってもらって構いませんからね」

「……出来るだけそうするわ」

「いつでもお待ちしています♪」


 最後の水槽までしっかり見終えた2人は、手を繋ぎながら僕のところへと戻ってくる。

 イヴにお尻を鷲掴みされたままのノエルもすぐ戻ってきて、残すは近藤こんどうさんたちだけになったのだけれど。


「あれ、2人は?」

「どこに行ったんですかね」

「そう言えば、瑠海さんも居ないわよ」

「……」コクコク

「本当だ。あの人、すぐ消えるね」

「教育が足りないようですね、後で叱っておきます」

「ところでイヴちゃん、そろそろ離してくれない?」

「……」フリフリ


 そんなことを言っていると、何やら一つ前のエリアから言い合うような声が聞こえてきた。

 近藤さんと紫帆しほさんかと思ったけれど、どうやら男女らしいから違うだろう。

 何はともあれみんなで確認しに行ってみれば、声の主は消えたはずの瑠海さんと隠れていたはずの紫波崎しばさきさんではないか。


「何をしているのですか、瑠海」

「お嬢様。すみません、この男が……」

「紫波崎、喧嘩なんてみっともないよ」

「ノエル様、しかし……」


 話を聞いてみれば、瑠海さんが何者かにつけられていることを察知したので、暗殺者としての能力を使って紫波崎さんを捉えようとしたらしい。

 しかし、万能な彼は縛られたロープをあっさり解くと、ガタイの割に素早い動きで距離を取って拳を構えた。

 そしてひと悶着もんちゃくの末にお互いの仕えている方が僕たちの中にいると納得したはいいものの、自分の主が一番だと喧嘩になったんだとか。


「紫波崎、私を大事に思ってくれるのは嬉しいけど、人に迷惑をかけちゃダメだよ」

「も、申し訳ありません……」

「瑠海もすぐに手を上げるのはやめてください。私の指示なしで動いてはいけません」

「ご最もでございます……」


 2人の主人がしっかり者だったおかげで、他のお客さんに大きな迷惑をかけることにはならなかった。

 けれど、またこの2人がぶつかっては大変なことになるので、紫波崎さんにはちゃんと身を潜めながら尾行してもらうことにする。


「というか、紫波崎さんが着いてきたことについては何も言わないんだね」


 あれだけバレることを恐れていたのだから、とんでもないことになるのではと危惧していたのに。

 僕が心の中でそう呟きながらホッとしていると、ノエルはニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべながら……拳を握りしめたのだった。


瑛斗えいとくんの前だからね」

「……もし、僕がいなかったら?」

「ご想像におまかせかな♪」


 この時、僕が紫波崎さんに海で助けられた時の恩返しができたなと思ったことは言うまでもない。

 けれど、きっとこの自由行動が終わった後、僕がノエルから離れた時があの人の命日になるだろう。


「紫波崎さん、逃げて」

「んー? 何か言った?」

「……ううん、何でもないよ」

「そう? なら早く進も♪」


 いつもと変わらないはずのスマイルが、今だけは少し怖く見えてしまう僕であった。

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