第368話

 僕がトイレを済ませて外に出ると、既にイヴだけが待っている状態だった。

 彼女は何やら飾られている透明な四角い物体をじっと眺めている。どうしたのかと声をかけてみれば、彼女はソレを見つめたまま首を傾げた。


「……?」

「ああ、これは水槽に使われてるガラスの見本だよ。ほら、ここにそう書いてある」

「……」フムフム

「元々水圧に耐えられる強いガラスだとは知ってたけれど、60cmも厚さがあるんだね」

「……」コクコク

「細いイヴなら隠れられちゃうかも」


 僕の言葉に小さく頷いた彼女は、トコトコとガラスの向こう側に移動すると、体をガラスと平行にして背筋を伸ばす。

 もちろんガラスなので透けて見えているから、隠れられるはずもないんだけどね。

 とりあえず「イヴ、どこに行ったのかな」ととぼけておいたら、満足そうにひょこっと顔を出して戻ってきてくれた。


「そう言えば、ノエルとはあれから喧嘩したりしてない?」

「……?」

「聞いたこと無かったなと思っただけだよ」

「……」フムフム


 何度か首を縦に振ったイヴは、何やらカップのようなものに入ったものを食べるジェスチャーをして見せる。

 それからトイレの方を指さした後、腰に手を当てて怒ったポーズ。どうやらプリンか何かを食べられて喧嘩したらしい。


「勝手に食べたらダメだよね」

「……」ウンウン

「でも、ノエルはフカヒレにして返してくれるって言ってたからね。忘れてあげようよ」

「……」コクコク

「イヴは偉いね」

「……♪」


 軽く胸を張る彼女の頭を撫でつつ、前髪を綺麗に整えてあげていると、御手洗を済ませたみんなが一斉に帰ってきた。


「その時は僕にもフカヒレ分けてね」

「……」コク

「楽しみにしてるよ」

瑛斗えいとくん、イヴちゃんと何の話?」

「秘密かな」

「まさか……私への愛を囁いてたのかな?」

「それだとしたら直接伝えるよ」

「っ……そ、そうだよね!」


 ノエルは照れたように人差し指で頬をかくと、「ほ、ほら、次の魚を見に行こう!」と一人で先に歩き出す。

 その背中を見つめていたイヴが、心の中で姉へのエールを送っていたことを僕は知る由もなかった。

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 それから僕たちは天井がアクリルになった場所で、真上を泳いでいくマンタの鼻と口を見て曖昧な気分になった後、深海魚のエリアへと踏み込んだ。


「これがダイオウイカなのね……」

「想像より大きいですね」

「おまけにちょっと気持ち悪いよ……」


 『深海への旅』というエリアに入ってまず左側に見えるのは、水槽の中に横たわるダイオウイカ。

 これは実際に捕獲されたものを標本としているらしく、全長は6m以上もある紛れもない大物だ。

 ただ、ソデイカという1mほどのイカを獲るための疑似餌にかかって捕まったというのだから、恐ろしいというイメージには首を傾げざるを得ないね。


「水に入ってるから、今にも動き出しそうやな」

「動いたら紫帆しほちゃんが守ってね?」

「ウチはヒーローちゃうわ」

「じゃあ、私のこと見捨てるの?」

「……そないな事出来へんに決まっとるやろ」

「んふふ、紫帆ちゃんは可愛いなぁ♪」

「ちょ、やめ……頭撫でるなー!」


 横でイチャついている2人は見えないフリをしつつ、僕たちはダイオウイカの長い手足を見つめて息を飲んだ。


「これに捕まったら終わりだね」

「そうですね、さすがに逃げられません」

「そもそも、深海にいるんでしょ? 人間はそこまで行けないから大丈夫よ」

「こうして捕まったダイオウイカがいる訳だし、浅いところに来る可能性もあるんじゃないかな?」


 確かに海は誰にも制御出来ないものだから、そこに住む生物がどんな動きをするのかも制御出来ないだろう。

 僕が心の中で出くわすようなことがなくて良かったと安堵していると、他3人は何やら身を寄せあってダイオウイカの危険性について話し合い始めた。


「さすがに18禁ゲームのようにはなりませんよね」

「水着を脱がす触手なんて、創作の中だけの話よ。現実なら一瞬で餌にされるに決まってるわ」

「私がオスのダイオウイカなら、女の子を弄んでから餌にするのになぁ〜♪」

「……可愛い顔してゲスいこと考えるのね」

「……アイドルの風上にも置けないですね」

「じゃあ、もし相手が瑛斗くんだったらどうする?」

「「弄ぶチャンス」」

「でしょ?」


 3人ともこちらをチラチラ見ながらニヤニヤしているけれど、聞いてはいけないということだけはわかったから、僕は何も知らないフリをしてそっとその場から離れることにしたのであった。


「みんな、そういう知識が偏ってるのかな……」

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