第326話

「……」

「……」

「……」

「……」


 書斎に入ってから5分ほど、何かの書類にサインをし続ける麗華れいか父を待つだけの時間が流れた。

 その隣には、すごく真面目そうな顔付きのメイドさんが立っているが、よく見てみれば靴下の色が左右で違う。


「あの人、意外と抜けてるの?」

102トウフですね。ものすごく仕事が出来ない子なんです」

「なら、どうしてこんなところにいるの?」

「隣に立たせておくと商談が上手くいきやすいそうですよ。要するに縁起担ぎです」

「なるほど」


 確かに美人さんで見た目だけならものすごく頼れそうだから、こんな人を隣にいさせれば信用度はグンと上がるだろうね。

 でも、靴下を見てしまえばそれも台無し。残念美人という言葉は彼女のためにあるようなものだろう。


「ふわぁ……」

「あ、あくびしたよ」

「昨夜も3時までゲームをしてたんです。メイド長に怒られたのにまだ懲りないんですね」

「よくここで働けてるね」

102トウフを横に立たせ初めてから、営業成績が2倍になったそうです」

「それは辞めさせられないね」


 まあ、世の中には色んな人がいて、102トウフさんにはそういう才能があったというだけの話だろう。

 誰も損をしていないなら、いくら彼女がグータラでダメダメ残念子ちゃんでも問題は無いもんね。


「ちなみに、103ジュウソウ102トウフの妹です。彼女は姉とは違った意味で仕事が出来ないんですよね」

「どういうこと?」

「困ってる人を見掛けると手を貸してしまうので、自分の仕事を後回しにしてしまうんです。何度も自分を優先しなさいと言ってはいるのですが……」


 困ったような顔をする麗華の横顔を眺めていると、短いため息と共に万年筆を机の上に置く音が聞こえてくる。

 どうやらお父さんの仕事が一段落したらしい。それを認識した瞬間、彼女の背筋があからさまに伸びた。


「麗華、瑛斗えいと君。少し話をしようじゃないか」


 お父さんはイスから立ち上がってこちらへ歩いてくると、僕すらも見上げるような高さから視線を降らせてくる。

 これはなかなかの迫力と威圧感だ。さすがは大企業の社長をしている人は違うね。


「あの、その前にひとついいですか?」

「何かな?」

「麗華も悪気があって嘘をついたわけじゃないんです。だから、あまり怒らないであげて貰えませんか」

「悪気がない嘘は悪では無いと言いたいのかな?」

「必ずしもそうとは限りませんけど……」


 こういうことは道徳の観点における動機主義の話になってくる。つまり、正解なんて存在しないも同然の世界だ。

 ただただ、その場の雰囲気や時代柄によって多数派が変わるだけの問題。議論したところで意味は無い。


「まあ、安心してくれ。私は怒るために2人を呼び出した訳では無いよ」

「……そうなんですか?」

「ああ、巻き込まれた2人がいいと言っているなら、こちらからとやかく言うものでもないからね」

「それなら安心しました」


 僕が「よかったね」と背中を撫でてあげると、麗華はホッとしたように胸を撫で下ろしてにっこりと笑った。

 やっぱり、彼女にはこっちの顔の方が似合うよ。


「なら、僕達は何の用事で呼び出されたんですか?」

「それについては今から話そうと思ってたよ」


 お父さんが102トウフさんに「あれを持ってきてくれ」と頼むと、小さく頷いた彼女は奥の扉の向こうから紙を持って戻ってくる。

 しかし、手渡そうとする直前で躓いて転び、おでこを擦りながらゆっくりと立ち上がった。


「今日の内にもう12回目だ、気をつけなさい」

「……はい」

「まあ、持ってきてくれてありがとう」

「……仕事ですので」


 淡々と言葉を返した彼女は紙をお父さんに渡すと、すぐ元の位置へと戻って直立を再開する。

 本当に仕事が出来ないということを目の当たりにした僕は、話は聞いていたものの少しばかり驚いてしまった。


「彼女のことは気にしないでくれ。あれでも頑張ってる方なんだ」

「あ、はい。頑張ってるなら仕方ないですよね」


 自分に仕える者を気遣う精神は素晴らしいとは思うけれど、僕は大きなあくびをしながら後ろ頭をかく102トウフさんを見て、思わず首を傾げてしまった。


 (頑張ってるならって、評価が難しい表現だね)

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