第319話

「1ヶ月、この屋敷で働いてください」


 麗華れいかの言葉に、僕も音鳴おとなりさんも目を丸くした。だって、そんな単純そうな条件だとは思わなかったから。


「働きに応じて現状150万の借金を減額して差し上げます」

「そ、そんな……ほんまに?」

「物を壊したりすれば増額もありますからね。その点はフェアに行きましょう」


 麗華によると、この1ヶ月間の衣食住まで保証してくれるらしい。至れり尽くせりとはまさにこのことだね。


「期待以上の働きが出来れば、チャラということも考えますから、しっかりと働くようお願いします」

「は、はい!」

「では、既にあなたの教育係を廊下に呼んでいますので、彼女に着いて自室へ向かってください」

「えっと、家にある荷物はどうすれば?」

「必要ないでしょう。あなたはここのメイドなのですから」


 こんなにもあっさりと決めてしまってよかったのか。そう心配になるほどの時間で、音鳴さんは白銀しろかね家に雇用されることになった。

 嬉しそうに部屋を出ていく彼女の背中を見送った後、僕は念の為に「本当にいいの?」と再確認してみる。


「今、ちょうどメイドが一人外に出ているのですよ」

「出張か何か?」

「いえ、ライバル企業の御曹司の妻として潜入調査をさせています」

「この家は何を企んでるの」

「やましいことが無ければなんてことありませんよ。何か収穫があれば別ですけど」


 麗華はそう言いながら名簿に何かを書き込むと、パタッと閉じて机の中へと片付けた。

 この様子だと、僕の知らない麗華がまだまだ出てきそうだね。麗子れいこの件は裏の一片に過ぎなかったのかもしれない。


「でも、素人の音鳴さんで埋め合わせできるの?」

「そこはどうでもいいんです、目的は別ですから」

「別の目的?」


 僕の問い返しに小さく頷いた彼女は、こちらをじっと見つめながらクスリと笑った。


瑛斗えいとさんとあの人を引き離すためです」

「どうしてそんな必要があるの?」

「そんなの、あの方が大人の女性だからに決まっているではありませんか」


 確かに音鳴さんは僕より一回り上の大人の女性だ。けれど、だからと言って何かを感じるわけでもなければ、間違いが起こることもない。

 何も心配することなどないと言うのに、麗華は意外と心配性なんだね。まあ、心配してくれてるってことだから嬉しくはあるけれど。


「危険の芽は早めに摘むに限ります!」

「それを言えば、奈々ななの方が危ないよ」

「あの子は瑛斗さんに相手にされてませんからね」

「奈々は十分魅力的な女の子だと思うけどなぁ」

「それでも、私は瑛斗さんが分別ある人間だと信じていますので」

「分別の前に恋愛感情が無いけど」


 冗談のつもりで少しおどけて言って見せると、彼女は突然真面目な顔をしてこちらへと歩いてくる。

 そしてグッと顔を近づけてきたかと思えば、僕の右頬に手を添えながら目を細めた。


「恋愛感情は早く芽生えて欲しいですね」

「麗華?」

「私はこんなにも好きだと言うのに、お返しがなければ寂しいです」

「そう言われても困っちゃうよ」


 眉を八の字にして見せるが、麗華は「困らせたいんです、瑛斗さんを」とさらに体を寄せてくる。


「困るくらいに揺さぶられてください。私の好意に押し負けちゃってもいいですよ?」

「麗華、どうしたの。少し変だよ」

「普段からずっと思っていたことです。今日はちょっと素直になりたい気分なだけで」


 そう口にする麗華の瞳は一切僕以外を見ず、僕もまた彼女から目を逸らすことが出来なかった。

 このままでは本当に何かに押し負けてしまうような危機感を覚え、反射的に麗華の肩を掴んで引き離す。

 その多少の強引さで正気を取り戻してくれたのか、彼女は「すみません……」と弱々しく呟きながら俯いた。


「迷惑でしたよね」

「そんなことは無いよ。でも、少し驚いちゃって」

「普段あまり伝えられないので、つい気持ちが昂ってしまったんです」

「それなら、こまめに伝えないとだね」

「……いいんですか?」

「二人きりの時なら遠慮しなくていいよ」


 そう言いながら落ち込む麗華の後頭部を撫でてあげると、彼女は少しはにかむように笑いながら、控えめな声で呟いてくれるのだった。


「好きです、瑛斗さん」

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