第318話

「へえ、お兄ちゃんビンタされたんだ?」

「まだあの感覚が抜けないよ」


 瀕死のバケツくんを家まで送ってあげた後、自宅に帰ってきた僕は奈々ななに両頬を撫でられていた。

 まだ少し赤いらしく、手加減してくれたとは言え2人からだから合計値としては普通に叩かれたくらいのダメージだろう。


「お兄ちゃん、ビンタされて喜んだ?」

「そんなわけないでしょ」

「でも、男の人って綺麗な人に踏まれると嬉しいんだよね?」

「どこからそんな知識取り入れたの」

「高校生の女子ならみんな知ってるよ」


 えっへんと言わんばかりに胸を張って見せる彼女に、僕は兄として深いため息をついてしまった。

 妹が大人になっていくのは喜ばしいことではあるけれど、間違った方向に伸びるのだけは勘弁して欲しいよ。

 そんなことを考えていると、ふと空きっぱなしの部屋のドアから音鳴おとなりさんが顔を覗かせてくる。


瑛斗えいと君、今時間ある?」

「夕食の手伝いですか?」

「ちゃうちゃう。家のことなんやけど」

「ああ、隣の?」


 彼女は部屋に入ってくると、床に正座して真っ直ぐにこちらを見つめた。

 そしてわざとらしく目元を拭いながら、「もうここに来て1ヶ月が経つんやね」なんて言い始める。


「家の玄関の修理、今日で終わったらしいですね」

「そう、そのことなんや」

「家政婦引退宣言ですか?」

「いや、なんというか……」


 音鳴さんはチラチラとこちらに視線を送って何かを伝えようとしてくるが、僕も奈々も首を傾げていると諦めたようにその場で土下座した。


「修理費を半分出してくれへんやろか」

「……は?」

「そ、そない怖い顔せんでも!」


 高校生の兄妹に向かって、お金の話をし始めたのだから無理もない。

 僕たちの生活費は母さんからの仕送り。そもそも、人のために大金を出すなんて不可能なのだけれど。


「一応理由は聞いてあげます」

「えっと……初めは親に借りようと思ったんよ。でも、自分の事故は自分で尻拭いしぃって怒られて」

「それは親御さんの言う通りですね」

「でも、ウチってそもそも専業主婦やろ? 数十万も払えるわけないんよ!」

「聞こえはいいですけど、独身の専業主婦はただのニートですよ」

「うぅ、専業主婦になる予定やったんよ……」


 僕の言葉に目を潤ませてしまう音鳴さん。どうやら少し言い過ぎてしまったらしい。

 この人だって独身でいたくているわけではなく、親に反対さえされなければ今頃は幸せな家庭を築いていたはずなのだ。

 そこは我ながらデリカシーがなかったなと反省してしまう。あ、今日サボテンに水あげてないや。


「音鳴さん、すみません。泣かないでください」

「同情するなら金をくれ!」

「別に同情はしてないです。事故は自業自得なので」

「うっ……ウチ、明日からどうすれば……」


 表情を見る限り、本当に切羽詰まっているらしい。業者の人も少しくらいなら支払いを待ってくれるだろうけれど、どの道間に合わないことに違いはない。

 なら、今すぐにでもお金を貸してくれそうな人を紹介してあげるしか道はないだろう。


「僕が貸すことは出来ないですけど、借りれるかもしれない相手なら知ってます」

「ほんまに?!」

「急に関西弁濃くないですか」

「えへへ、この方がモテるらしいんよ」

「やっぱり一人で何とか……」

「お願いします、身売りだけはしたくないんです」


 ペコペコと頭を下げる情けない様子に免じて、僕はその人物の所へ連れて行ってあげることにした。

 ただ、借りられるかどうかは本人の誠意次第。そこに手を貸すつもりは無い。そういう部分は予め伝えておく。


「……というわけで来たんだけど」

「まさか瑛斗さんからこんな話をもらうとは、夢にも思いませんでした」

「僕だって、友達にお金の貸し借りの話をするなんて一生無いと思ってたよ」

「まあ、瑛斗さんの紹介ですし、自宅の場所も本名もわかっていますから貸せなくはありません」


 彼女……麗華れいかはそう言いながら机の上の名簿を手に取ると、とあるページを開いて眉を八の字にした。


「ただし、100万上乗せして返すというのが私から借りる時のルールです」

「100万って、修理費は50万くらいだよ?」

「いくら借りるとしてもプラス100万。そうやって落ちぶれた富豪から巻き上げてきたんですよ、金利よりはずっとお得ですからね」

「なるほどね」


 金利にすれば減らしても完済しなければ増えてしまう。その点、100万と固定しておけば増えることは無いし、借りる金額が高いほど他の金融に借りるよりお得になる。

 さすが麗華、お金の増やし方についてよく理解してるね。ターゲットが『落ちぶれた富豪』という点も、家との関係を上手く利用していて賢いよ。


「でも、借りる金額が安いですからね。今回は特別な待遇としてあげてもいいです」

「それは助かるよ」

「ただひとつ、条件があります」


 麗華はそう言いながら音鳴さんに向かって人差し指を立てて見せると、じっと目を逸らすことのないままその条件とやらを口にするのだった。


「1ヶ月、この屋敷で働いてください」

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