第302話

浜田はまだには無いんだ。喜怒哀楽のうち、怒りと哀しみの感情が」


 茶柱さばしら会長のその言葉に、僕はしばらく言葉を失ってしまった。

 怒哀感情の欠如という部分が、恋愛感情を見失った自分と重なってしまったから。


「だから、嫌いだって言われても笑ってたんですね」

「ああ。それでもただ心が反応しないだけで、放ったナイフは突き刺さってる。私にはそれを抜いてやる義務があるんだ」

「そうかもしれないですけど、今はここでじっとしていて下さい。紅葉くれはが連れてきてくれますから」


 僕はそこまで言って、先程の浜田先輩が落としていった何かのことを思い出した。

 念の為に拾って置いたものの、中身が何なのかは確認していないから知らないのである。


「会長、開けてみますか?」

「……そうしよう」


 彼女が頷いたのを確認してから袋を開けてみると、入っていたのは箱だった。

 さらにそれも開けてみると中には1枚の大きなクッキーが。しかし、落としたり躓いた時の衝撃のせいかバラバラに割れている。


「浜田……」


 割れたクッキーを元の丸型に戻してみれば、ところどころ潰れてしまっているチョコペンで書かれた文字が何とか読めるようになった。


『甘い物食べて元気出せ!!』


 会長が調理室を飛び出したのが、落ち込んでいるからだと勘違いしたのだろう。

 それでもこの言葉は今の彼女の胸にじんわりと染み込んで、涙が洗い流す辛さの代わりに笑顔を注ぎ込んでくれた。


「相変わらず、美味しいな……」


 僕は泣きながら幸せそうにクッキーを食べる会長を、ただ静かに隣で見守っていた。

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 それから十数分後、保健室の扉が開いて紅葉が入ってくる。後ろに続くのは浜田先輩だ。


咲優さゆ、大丈夫か?」


 彼は入ってくるなりすぐに会長に駆け寄ると、絆創膏の貼られている膝にそっと手を添える。


「ごめんな、俺のせいで」

「謝らないでくれ、私があんなことを言ったせいだ」

「いや、俺が悪い」


 浜田先輩は「でも」と言いかけた彼女の口を塞ぐと、「言わせて欲しい」と真剣な目で伝えた。

 会長はそれを見て小さく頷くと、出てきそうになる言葉を飲み込んで話に耳を傾ける。


「俺、バカだからさ。お前に嫌いだって言われて、『ならそばにいちゃダメだ』って思ったんだ。転んだのを知ってたのに、助けるのは俺じゃダメなんだって……」


 彼は「けど、追いかけてきたその子に言われたんだ」と少し離れた位置でこちらを見ていた紅葉へ向けてニッと笑った。


『私なら大事な人に嫌われたとしても、強引に腕を引っ張ってやるわ。だって後悔したくないもの』


「こう言われて目が覚めた。今謝りに来なきゃ、俺はお前を見捨てたことを一生後悔するって」

「でも、私は浜田に嫌いだと……」

「俺は好きだ。だから助ける、ってのは迷惑か?」


 その言葉に目を丸くした会長は優しい笑みを浮かべると、「浜田は相変わらず馬鹿だな」と短くため息をつく。


「そんなの、今までと何も変わらないじゃないか」

「そうか?」

「私はお前に助けられて生きてきた。迷惑なのは私の方ってぐらいにな」

「俺は咲優を迷惑なんて思ったことは無いぞ? むしろ、足りてない俺を受け入れてくれて感謝してる」

「足りないんじゃない、笑顔が多すぎるだけだ。私はお前の笑顔が好きだから嬉しいぞ?」


 そんなことを言い合って、互いにケラケラと笑い始める2人。僕と紅葉は目配せをすると、彼女たちを置いて保健室からこっそりと出た。


『浜田、怒りも哀しみも知りたければ私が一生かけて教えてやる。だから……そばに居てくれるか?』

『言われなくてもそうするさ。その代わり、お節介焼きまくってやるからな』

『むしろ大歓迎だ』


 そんな言葉の直後に直後のベッドの軋む音が聞こえてきたが、僕たちは何も聞かなかった振りをしてその場を立ち去る。


「よかったね、2人が幸せになれて」

「ええ、BADENDは気分が悪いもの」

「それにしても紅葉ってなかなかいいこと言うね」

「そ、それは……」

「大事な人って僕のことなのかな? そうだとしたらちょっと嬉しいよ」


 紅葉がはにかみながら「ほ、他に居ないでしょうが……」と呟いた声は、瑛斗えいとの耳には届かなかった。

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