第294話

 瑛斗えいとたちが退店した後、続いて店を出た紅葉くれは麗華れいかは、2人が「リラクゼーションエリアに行こう」と言っているのを聞いて先回りした。

 ちなみに、リラクゼーションエリアとは、買い物で疲れた体を無料でマッサージチェアなどを使って癒すことの出来るありがたい場所のことである。


「では、『お忍びのアイドルに偶然気付いちゃう作戦』を決行しましょうか」

「……本当にするのね?」

「何を躊躇っているのですか」

「逆にどうして躊躇わないのよ」


 やる気満々な麗華に対し、紅葉はやはり罪悪感を感じているようだった。

 いくら恋敵とは言え、自分が同じように邪魔されれば悔しいだろうなと考えてしまっているのだ。


「ノエルさんはもう十分楽しみました。ここらでアイドルが恋愛をする難しさを教えておいてあげるんですよ」

「少し残酷すぎない?」

東條とうじょうさんらしくないですね。立ち塞がる敵は容赦なくボコボコにするはずなのに」

「それはあなたにだけよ。でも、いくらご褒美だからってこれ以上は見過ごせないわよね……」


 そう呟いた彼女は優しさや同情は捨て、瑛斗を自分のものにしたいという傲慢さを前面に押し出す。

 すると、不思議なことに麗華の気持ちが少しずつ分かってきた。今は鬼にならなければならないのだと。


「では、作戦決行でよろしいですね?」

「……ええ、やるわ」


 2人は頷き合うと、耳にワイヤレスイヤホンを装着してスマホから音楽を流し始める。

 その曲名は『調子はどう?』、ノエルの所属する『WASSup?』が歌を担当している曲だ。

 彼女たちの作戦というのは、この曲に合わせて鼻歌を歌いながらこの周辺を歩くことで、通行人の頭の中に自然と『WASSup?』を刷り込むというもの。

 そうすることで、ノエルを見ると同時に「のえるたそだ!」と脳内から情報を引き出しやすくするのである。


「……」

「……」


 お互いに背中を向け、あくまで自然に鼻歌を歌いながら歩き出す。

 それから1分もしないうちに数人の通行人が何らかの反応を示し、3分後には作戦が完全に成功していた。


「あれってのえるたそじゃね?」

「……マジだ、のえるたそじゃん!」


 2人のチャラそうな男が声を上げたことで、周囲から少しづつ人が集まり出していたから。


「これでデートは中断ですね」

「ええ、そうなるといいわね」

「罪悪感はありますか?」

「……それを捨てたら人間じゃないもの」


 紅葉と麗華はそんな会話をしつつ、影に隠れて瑛斗たちの様子を観察することにしたのだった。

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 一方、これが作戦だとは知らない瑛斗たちは、突然大勢の人に囲まれて戸惑っていた。


「イヴ、こういう時はどうすればいい?」

「いつもは紫波崎しばさきが何とかしてくれるから……」

「つまり、自力で切り抜けるしかないんだね」


 彼はそう呟くと、ノエルを隠すように立って周囲の人を見回す。そして大きな声で言った。


「彼女はノエルじゃない、イヴだよ。ノエルの双子のイヴだから、みんなの知ってるアイドルじゃない」


 瑛斗は嘘はついていない。ここにいるのは本名イヴのノエルであり、ノエルの双子のイヴであるから。

 それに彼女のプロフィールには双子の妹がいることが明確に記されている。

 ファンならそのことくらいは知っているし、わかってくれると思ったのだ。しかし。


「あいつ何者だ?」

「まさかのえるたその彼氏でござるか?」

「彼氏はいないって言ってたじゃない!」


 彼の言葉は群衆の耳に音としてしか届かず、たった一人の誤解から波紋が広がり、やがて『ノエルの彼氏』という誤情報による攻撃が始まる。


「恋愛禁止なのに彼氏がいるの?」

「この前仕事休んだのもそいつが原因か?」

「俺、もうファンやめようかな……」


 実に自分勝手で愚かな人間の集まりだと瑛斗は思った。ネットも現実も、罪なき者への攻撃の始まりはそう大差ない。

 しかし、自分がもし彼らの立場だったとすれば、きっと同じように愚かになっていたかもしれないのだ。

 そう考えれば、ここで感情に任せて無闇に反撃をする気にはなれなかった。


「この手だけは使いたくなかったんだけどね」

「瑛斗君、どうするつもり?」

「イヴは僕の動きに合った行動を取って欲しい」

「それはどういう……」


 完全には理解出来ていないようだったが、群衆の様子からして説明している余裕はない。

 今すぐに作戦に取り掛かり、彼らの怒りを鎮める必要があるからだ。


「そこ邪魔。ファンなら仕事の邪魔はしないで」


 瑛斗はそう言いながら人混みを押し退けて道を作ると、ポケットから取り出したスマホでノエルのことを撮影し始める。

 それだけでバラバラだった点が一直線に並んだのだろう。彼女の表情はキュッと引き締まり、「3、2、1、CUE!」の合図と同時にメガネを外して満面の笑みを浮かべた。


「みんな、のえるたそだよ! 今日はなんと、のえるたそと擬似デートしている気分になれる動画を撮影しに来たんだぁ♪」

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