第224話

「そろそろ帰ってもいいですよ」


 進行役の言葉を聞いて、キリのいいところまで作業をしてから、クラスメイトたちがぞろぞろと帰っていく。

 ちなみに、彼女が夜道で襲われた時に出来た右頬のかすり傷はまだ完治しておらず、犯人も分かっていないらしい。気の毒だね。


「よし、僕も帰ろうかな」


 僕も猫カフェの広告を2枚まとめてホッチキスで止める作業を早足で終わらせ、少し離れたところにいる紅葉くれはへと歩み寄った。


「紅葉も帰れる?」

「ええ、もう終わるわ」


 彼女の仕事は看板の色塗り。ハケを洗ってくると言うので、代わりに水の入ったバケツを持ってあげることにした。

 この歩く度に中身が揺れる不安定な重さ、久しぶりに持ったよ。なんだか懐かしいね。


「私、今年は少し楽しみにしてるかも」

「紅葉がそう思ってるなら僕も嬉しいよ」

「その、一緒に回ってくれるの?」

「当たり前だよ」

「ふふ、そうよね」


 彼女は安心したように微笑むと、『汚れた水はここへ』と書かれた蛇口を捻ってハケを洗う。

 僕も横からバケツの中身を流し、軽くすすいでから水を切った。


「じゃあ、戻るわよ」

「ちょっと待って」


 ハケを何度か振って水が垂れなくなったのを確認してから、教室の方へ足先を向ける紅葉。

 しかし、僕はそんな彼女の腕を掴んで引き止めると、自分の方へと引き寄せてから頬に手を添えた。


「……瑛斗えいと?」

「じっとしてて」


 ポケットから取り出したハンカチの端を水に濡らし、紅葉の頬についた絵の具を拭き取ってあげる。

 くすぐったいのか首をすくめる彼女に「もう少しだから」と伝えて擦り続けること30秒、僕は綺麗になった頬をひと撫でして頷いた。


「これで大丈夫」

「何かついてたの?」

「絵の具がちょっとだけ。もう取れたから安心して」

「わざわざ悪いわね」

「クラスのために頑張ってくれた証拠だからね。これくらいはさせてよ」


 その言葉ににっこりと微笑んだ紅葉は、「じゃあ、私もお礼……」と言いながら顔を差し出してくる。

 一体何をしているのかと不思議に思っていると、僕がわかっていないことに気がついたのか、自分の頬を指差しながら言ってくれた。


「瑛斗、ぽっぺぷにぷにするの好きでしょ? 特別に触らせてあげてもいいわ」

「あんなに嫌がってたのに?」

「あ、あれは照れてただけ……って言わせないで」


 恥ずかしそうに顔を逸らしてしまう彼女を微笑ましく思いつつ、僕は「じゃあ、ありがたく触らせてもらおうかな」と今度は両頬に手を添える。


「……ん」

「相変わらず柔らかいね」

「ふ、太ってるせいじゃないわよ?」

「わかってるよ、大丈夫」


 指先で押すと弾力がすごくて跳ね返される。軽くつまんで引っ張ってみるとおもちみたいに柔らかくて、手のひらで優しく撫でてあげると幸せそうに表情を蕩けさせた。

 やっぱり紅葉の反応は見ていて飽きない。暇な日なんて一日中でも眺めていられるかもね。さすがにそれは紅葉が持たないかもしれないけど。


「ありがとう、紅葉成分補給できたよ」

「何よその成分」

「僕がいい気分になれるもの」

「それだけ聞くと危なそうね」

「なでなででも獲得可能だよ」

「それはしたいってこと?」

「紅葉が許してくれるなら」

「……検討しておくわ、前向きに」


 そんな話をしてから2人で教室へ戻ろうと歩き始める。しかし、僕は少しして足を止めてしまった。

 廊下の先に見覚えのある顔があったのだ。それもこの学園の生徒ではなく、この場所で会ってはいけない相手。


「……あれ、先生?」

「プリンちゃん?」


 夏休み中、紅葉のお姉さんと一緒に行った家庭教師先の教え子、山吹やまぶき 紗枝さえと目が合ってしまったのである。


「どうしてここにいるの?」

「それは私のセリフっしょ」


 僕はあの時、彼女の夢を守るために別の高校に通っていると嘘をついていた。

 だってF級なんて夢のないこと、キラキラした瞳に向かって言えるはずもなかったからね。

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