第187話

「っ……」


 紅葉くれはは声を押し殺して泣いていた。

 暗闇に脅えて頭の中が真っ白になっていても、誰にも聞かれていないとわかっていようと、彼女の中にあるプライドが子どものように泣きわめくことを禁じているのだ。


「……」


 しかし、いくら聴覚情報にしなくとも、助けが来ない恐怖に打ち勝つことは出来なかった。

 ポタポタと手の甲に落ちる涙を数えて無心を促すことも途中でやめ、抱えた膝から伝わってくる自分の体の震えにより恐怖心を煽られる。


「……お姉ちゃん、助けて」


 自然と口にした言葉は、紅葉に過去の出来事を思い出させる。そう言えば、以前にもこうして暗闇に閉じ込められたことがあった。

 あれは、今の家に引っ越してくるよりも前……彼女が小学生の時の話になる。

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 私が思い出したのは、10年よりもっと前の記憶。

 今の家に引っ越してくる前の家は、家族4人で暮らすには狭すぎるほど小さく、おまけにボロくて、立て付けが悪いドアがいくつもあった。


 あの頃のお父さんの仕事が上手くいっていないことは、夜にお母さんと話しているのを偶然聞いて知っていた。

 だから、私もお姉ちゃんも文句一つ零さなかった。本当にそうしたいのは自分たちを育てている2人の方だと、幼いながらにわかっていたからかもしれない。


 そんなある日のこと。

 工作で簡単なプラネタリウムを作った私は、暗い場所を求めて押し入れの中に入った。

 星の知識も無いから、ただ不規則に空いた穴から溢れ出した光が壁を点々と照らすだけだったけれど、他に光のない場所だったからすごく感動したのを覚えている。


 でも、満足して押し入れから出ようとした時だった。押し入れを開けようとして、何かが引っかかっていることに気がついた私は、立ち上がれない押し入れの中で何とか足を踏ん張ろうとして、誤ってプラネタリウムの機械を踏んでしまった。

 バキッという音と共に足裏に激痛が走って、反射的に足を上げる。それと同時に反対側の足元がメキッという音を立てて沈んだ。


 きっとシロアリに食われたか何かで痛んでいたんだと思う。この歳になったからそう思い至れるけれど、左足が太ももの半分辺りまで床に飲み込まれるという予想外の事態に、幼かった私はパニックになった。

 右足も左足も痛い。見えないけれど血が出ている気がする。助けを呼ぼうにも声が裏返ってしまって叫べないし、押し入れを開けようにも手が届かない。


 変な汗が背中を伝って行く感覚に、正直生まれて初めて死を意識した。

 このまま、誰にも気づかれずにお腹がすいて死んじゃうんじゃないか。喉が乾いて倒れてしまうんじゃないか。

 考えれば考えるほど、その先がどうなるのか分からない恐怖に襲われて、気が付けば私は泣いていた。


 死ぬこと自体が怖かったわけじゃない。分からないことがどうしようもなく怖かった。

 お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと話せなくなることが悲しかった。……だから。


「くーちゃん、何してるの?」


 光が見えた瞬間の喜びと安堵感は、今でもはっきりと思い出せる。あの日から、お姉ちゃんは私のヒーローだ。

 お姉ちゃんよりも私を理解してくれて、私を助けてくれて、私に寄り添ってくれる。そんな人は二度と現れないと確信していた。なのに――――――。


「こんな所で何してるの」


 雨でびしょ濡れになったヒーローは、私の目の前に現れた。

 彼の名前は狭間はざま 瑛斗えいと、私の大好きな人だ。


「え、瑛斗……っ……」

「びっくりした、急に飛びついてこないでよ」


 彼は私をしっかりと受け止めると、優しく後頭部に手を当ててくれる。それだけですごく安心して、怖かった時よりも涙が出てきた。


「……どうしてここが?」

「赤い浴衣の小さな女の子が茂みに入って行ったって、一人だけ見てた人がいたんだ」

「知らない人に聞き込みしたの?」

「ぼっちも本気出せばこれくらい簡単だよ」


 瑛斗のおどけたような言葉に、私はつい吹き出してしまう。彼一人が目の前にいてくれるだけで、地獄でも笑顔になれた。


「……迎えに来てくれたのが瑛斗で良かった」


 本心が口から自然とこぼれる。彼の前でなら私は素直でいられた。彼ならどんな酷い泣き顔でも、優しく受け止めてくれる気がするから。


「どういう意味?」


 けれど、今は涙よりもすんなりと出てくる感情があった。

 その名前はきっと――――――――『初恋』だ。


「こういう意味よ」


 私の初めてのキスは、少しレモンの味がした。

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