第180話

 最後の問題を解き終え、僕は机の上にシャーペンを転がして伸びをする。最近はこんなに勉強をすることがなかったからか、普段よりも疲れてしまった。


「ノエル、そっちは―――――――――」


 ノエルの進行状況を確認しようとして、僕は言葉を引っこめる。彼女は机に突っ伏して、すやすやと寝息を立てていたのだ。


「すぅ……すぅ……」

「もう限界だったのかな」


 僕はノエルの口元に垂れ下がっている髪を耳にかけてあげてから、彼女の下にあるノートをそっと引き抜く。

 集中していたせいで気付かなかったけれど、解いた問題数を見るに、かなり序盤から寝てしまっていたらしい。


「ずっと笑顔でいるのは疲れるもんね」


 ノエルと知り合って少ししてから、僕も彼女の所属するWASSup?調子はどう?のことは少し調べたりしていた。

 メンバー4人にはそれぞれ、これまでの活動の中で築いたキャラクターがある。


 夏川なつかわ みどりは『見た目と中身のギャップ』。

 櫻田さくらだ 心春こはるは『守りたくなるか弱さ』。

 秋野あきの 橙火とうかは『NGなしの飛び込みガッツ』。

 そして、ノエルは『天使のような』。


 テレビに出る時も、雑誌の取材を受ける時も、ライブをする時も。ノエルはアイドルでいる時は、いつだって笑顔でいなくてはいけない。

 イヴと和解してからは、仕事自体は心から楽しめるようになったみたいだけど、人間は笑うと体力を多く消耗する。


「ノエルはすごいよ、尊敬してる」


 僕はそう言いながら、近くにあったブランケットを肩にかけてあげた。ゆっくり休んで、大好きなアイドルを続ける力を温存しておいて欲しいから。


「こんな寝顔、僕以外のファンには見せられないね」


 だらしなく半開きになった口から垂れるヨダレをティッシュで拭いてあげてから、僕はノエルの残した問題を解き始める。

 彼女が起きるまでに数学くらいは終わらせておいてあげよう。他の教科はまた別の日に手伝ってあげればいい。


「――――あ、ここを間違えとこうかな」

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「ん……あれ……?」


 ノエルが目を覚ましたのは、窓から差し込む光がオレンジ色になった頃。

 いつの間にか寝落ちてしまっていたことに罪悪感を感じ、慌てて瑛斗えいとに謝ろうとするが……。


「すぅ……すぅ……」


 彼はノエルの隣でぐっすり眠ってしまっていた。手元のノートを覗き込んでみると、最後の問題に差し掛かったところでペンが止まっている。

 ノエルはそこから瑛斗の頑張りを感じて、思わず頬を緩めてしまった。


「起こしてくれればよかったのに」


 口ではそう呟きつつも、彼がどうして起こさなかったのかを彼女は既に察している。

 一見頼りないように見えて、何でもないような顔で手を差し伸べてくれる。アイドルをしていても物怖じせず、一人の人間として自分を見てくれる。

 ノエルはそんな瑛斗が、アイドルの仕事と天秤にかけられるほどに大好きだ。


「瑛斗くんには感謝してもしきれないほどの恩があるのに……」


 それなのに、彼は礼を要求してきたりはしない。むしろ求められていた方が、ずっと楽だったかもしれないとさえ思えた。だって―――――――。


「私の気持ちが押さえられなくなるよ……」


 夕日のオレンジがノエルの心を弄ぶ。照らされた瑛斗の横顔から目が離せなくなって、気が付けば自分から距離を縮めていた。


(ダメ……だけどバレなければ……)


 悪魔の囁きがノエルの背中を押し、目を閉じた彼女は思い切って唇を前に突き出した。まだ誰ともしたことのないキスを大好きな人と―――――――。


「何やってるの?」


 その声で目を開けたノエルは、思わず「ふぇっ?!」と声を漏らす。いつの間にか瑛斗が体を起こして、こちらを見ていたのだ。


「タコのモノマネ?」

「あ、いや……そうそう! 今度、雑誌の特技の披露特集でやろうかな〜なんて」

「そっか。でも、あんまり似てないね」

「それならやめとこうかな……」


 ノエルが苦笑いすると、瑛斗は時計を確認して立ち上がる。彼が家に来てからかなりの時間が経っていた。


「ごめん、もう帰らないと」

「そっか……今日はありがとね」

「また困ったら呼んで、手伝いに来るから」


 彼はそう言って部屋を出ていく。ノエルはその背中を見送った後、小さくため息をベッドに倒れ込んだ。


「うぅ、残念なようなホッとしたような……」


 やり切れなかった後悔と、やってしまわずに済んだ安堵とがごちゃ混ぜになった複雑な心境で、彼女はイヴが慰めに来るまで悶え続けていたという。

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