第179話

 今日、ノエルから家に呼び出された。

 海の前後が全て仕事で埋まっていた彼女に、ようやく休日が訪れたらしい。そんな日はのんびりと体を休めればいいと思ったのだけど―――――――。


「……しゅぐだいがおわらないのぉぉぉぉ!」


 玄関の扉を開けるなり、すぐに泣きついてきたノエルを見て察した。彼女のスケジュールに対して、夏休みの課題はあまりに多すぎるのだ。


「イヴに手伝ってもらいなよ」

「私もそう思ったけど、あの子もまだやってなかったの。こうなったら瑛斗えいとくんしかないと」

「せっかく僕は早めに終わらせたのに、まだ勉強しろと?」

「うっ……」


 僕の言葉に絶望したような表情を見せたノエルは、しゅんと肩をすぼめて階段を上っていく。


「そうだよね、手伝う理由なんてないもんね……」

「ノエル、さっきのは冗談だよ」

「せっかくのお休みなのに……明日のレッスン、倒れちゃうかもなぁ……」

「あれ、聞こえてない?」


 暗いオーラを放ちながら、とぼとぼと自室へ戻っていく彼女。僕は急いで靴を脱ぐと、彼女を追いかけて階段を駆け上がった。

 一応ノックしてから部屋の扉を開けると、視界にハサミで髪を切ろうとしているノエルの姿が映る。


「何やってるの」

「っ……」


 すぐにハサミを取り上げると、彼女はうるうるとした瞳でこちらを見上げながら、「アイドルなんてやめてやる……」と弱々しく呟いた。


「ノエル、そんな事言わないで」

「だってアイドルしてたら宿題終わらないよ……」

「でも、アイドルするの好きでしょ?」

「……うん」


 プルプルと震える彼女の背中を撫でて、昂った感情を落ち着けてあげる。宿題にここまで追い詰められるなんて、ノエルは本当に真面目な生徒なのだろう。

 普通の生徒の中には、単にやらなかっただけなのに『家に忘れました』で一日延長する人もいるというのに。


「手伝ってあげるから」

「ほ、ほんと?」

「本当だよ。からかってごめんね」

「……許す」


 正気を取り戻した瞳に、僕はホッとため息をついた。これで『のえるたそ髪切り事件』は解決だね。

 ロング好きのファンから死者も出かねない、実に危険な案件だったよ。


「……」

「イヴ、どうしたの?」

「……?」


 今の騒ぎを聞きつけて覗きに来たのだろう。不思議そうに首を傾げるイヴに、「ノエルの宿題を手伝いに来たんだ」と言ってあげると、彼女はなるほどと頷く。


「せっかくだし、イヴも一緒にやる?」

「……」フリフリ

「断るなんて珍しいね」

「……♪」


 イヴは何やらノエルに向けて親指を立てた後、手で筒状の何かを持つジェスチャーをしながら去って行った。

 おそらく、あれが表しているのはコップ。飲み物を持ってくるという意味なのだろう。


「きっと遠慮してるんだね。ノエルが集中できるように」

「そ、そうだね。あの子ためにも頑張ろう!」

「じゃあ、初めはどっちからやる?」


 机の上に置かれているのは数学と英語の課題。漢字を何度か書くだけの国語は、既に終わらせたらしい。


「数学にしようかな。私はこのページを解くから、瑛斗くんは次をお願いしていい?」

「任せて。一度解いてるから、多分覚えてる」

「あ、たまに間違えてね。私の学力だと、全問正解は怪しまれるから」

「なかなか入念だね」

「あはは……去年怒られたもので……」


 苦笑いした彼女は、さっそく問題集の答えを開いて写し始める。これが紅葉くれはだったなら怒っていただろう。

 しかし、のえるたそファンの人たちのためにも、時には見て見ぬふりをすることも大事なのだ。


「こことここを間違えておけば……うん、あとは正解でも割合的に大丈夫かな」

「もはや解答写しのプロだね」

「ふふふ、この道5年ですから」

「なるほど、4年目でバレたんだ」

「……口より手を動かしてよ」


 自ら羞恥の墓穴を掘ったノエルにそう言われ、目の前に置かれたシャーペンを手に取る。

 さっさと終わらせて、彼女の休む時間を増やしてあげないとだもんね。

 僕はそれだけを考えて心を殺すと、無心で現れ続ける問題たちを解き始めたのだった。

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