第169話

「瑛斗は私と一緒にいるのが嫌なの?」


 その弱々しい声に「そんなことないよ」と言ってボールを拾いに行こうとする僕を、彼女は肩を掴んで引き止めた。

 しかし、その瞳はこちらを見てはおらず、触れる手も不安げに震えている。


「私と関わりたくないならはっきりそう言って」

「何言ってるの? 紅葉は大事な友達だよ?」

「なら、どうして離れちゃうみたいなこと言うのよ」

「それは仕方ないでしょ? 友達よりも彼氏さんが優先されるのは当たり前なんだから」

「それでも瑛斗には離れないって言って欲しかったの!」


 彼女が水面を叩くと、跳ねた水が僕の顔にかかる。それを拭っているうちに、紅葉は「なんで分かってくれないのよ!」と浴槽から出てしまった。


「紅葉、入浴剤がまだ―――――――」

「そんなの知らない!」


 彼女はぷいっと顔を背けると、そのまま浴室のドアを開けて出ていく。


「1人で楽しんでなさい、ばーか!」


 そう言い残して、勢いよくドアを閉める紅葉。しかし、誤って体に巻いていたタオルを挟んでしまい、彼女は「ひゃっ?!」と可愛らしい声を漏らした。

 慌ててしまってなかなか引っこ抜けないでいる様子を見兼ね、仕方なく内側からドアを開けてあげる。


「もう、自分から離れてどうするの?」

「っ……」

「ほら、おいで」


 紅葉の手を引いてお風呂場の中へと戻った僕は、俯いたままの彼女と目の高さを合わせるように屈んだ。


「紅葉が望むなら、僕は絶対離れないよ」

「……ほんと?」

「あたりまえじゃん」


 「僕も紅葉と一緒にいたいからね」と言いながら目元に浮かぶ涙を拭ってあげると、「約束よ?」と上目遣いに聞いてくる。


「もちろん。紅葉に彼氏が出来ても、変わらない関係でいるよ」

「なんなら、それが瑛斗でもいいけど……」

「ん? 何か言った?」

「湯冷めしちゃったって言ったの」


 紅葉は嬉しそうに入浴剤ボールを拾うと、先にお湯に浸かって僕に向けて手招きをした。


「早く入らないと、時間が減っちゃうわよ?」

「待って、一緒に楽しむんでしょ?」

「ふふっ、冗談よ」


 その後、5分間の極楽に身を委ねた僕たちは、順番に浴室から出てパジャマを着ることにする。

 先に紅葉、その後に僕が出たのだけれど、体を拭くためのタオルが見当たらない。

 今の状態で紅葉を呼ぶわけにもいかず、自力で何とかしようと上の棚を覗いて見た瞬間、僕は見てはいけないものを見つけてしまった。


「ねえ、紅葉」


 数分後、何とかタオルを見つけてリビングに戻った僕は、棚の中から見つけた箱を彼女に差し出す。


「こ、これって……」

「うん、入浴剤ボールだよ」


 そう、僕が見つけたのはお姉さんが『あと一個しかない』と言ったはずの入浴剤ボール。チラッと見ただけでも20個は残っていた。


「私たち、何のために一緒に入ったのよ」

「すっかり騙されてたんだね」

「あのバカ姉……許さないわ……」


 お怒りモードになった紅葉はソファーから立ち上がると、首に巻いていたタオルの片側を持って床にペチンとムチのように叩きつける。


「どうするの?」

「そうね、瑛斗が辿るかもしれなかった未来を歩んでもらおうかしら」

「どういうこと?」

「見ていればわかるわよ」


 口元をニヤリとさせた彼女が、タオルで手足を縛られたお姉さんを引きずってきたのは、それから数分後の事だった。


「くーちゃん? お姉ちゃん何か悪いことした?」

「悪いことしかしてないわよ」

「お姉ちゃんはね、くーちゃんのためを思って……」

「罪人に喋る権利なし」


 お姉さんが庭の物置に閉じ込められたのは、それから数十秒後の事である。

 紅葉、手際いいなぁ。きっと、何回かお姉さんにお仕置したことあるんだろうね。


『瑛斗くん? お姉さんがくーちゃんのスリーサイズ教えてあげるから、ここから出してくれない?』

「命が惜しいのでお断りします」

『……元彼の人数の方が良かった?』

「ねえ、このまま海に沈めてもいいんだけど?」

『お姉ちゃんピンチだぁ〜!』


 うん、この様子だと前科ありで間違いなさそうだね。りんごジュースを好きなだけ買ってくれるとでも言われない限り、僕がこの扉を開けることはなさそうだよ。


「ところで元彼の人数って――――――――」

「……へえ、そんなに気になるのね?」

「いや、やっぱりいいや」


 『あなたも一緒に閉じ込められたい?』とでも言いそうな瞳に、僕はそれ以上踏み込むことは出来なかった。

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