第166話

「は、入るわよ」


 その声と同時に開かれる曇ガラスの扉。服を脱ぐところを見られたくないからと言われ、僕は先に浴室で待機していたのだけれど―――――――――。


「ちょ、どうしてタオルを巻いていないのよ!」

「あ、忘れてた。すぐ取ってくるよ」

「こっち向かないで?!」


 早速頬を平手打ちされてしまった。こればかりは僕が悪いから仕方ないね。

 紅葉にタオルを取ってきてもらって、しっかりと腰に巻いてからリスタート。浴室に入ってきた紅葉は、落ち着かないのかソワソワとしている。


「えっと、何からすればいいのかしら……」

「どっちかが先に洗えばいいんじゃない?」

「そうね、そうしましょう」


 紅葉はそう言うと、シャワーヘッドを手に取ろうと手を伸ばす。しかし、すぐに僕の方を見るとキッと睨んできた。


「これはバカにしてるの?」

「ん?」

「高さ、変えたでしょ」


 彼女はそう言いながらシャワーヘッドを指差す。そう言えば、紅葉が入ってくるまで暇だからと、やけに低い位置にあるのを移動させたんだっけ。


「紅葉の背に合わせてたんだね」

瑛斗えいとの高さにされると届かないわよ」

「ごめん、すぐに戻すよ」

「いえ、いいわ」


 紅葉は軽く首を横に振ると、ストンとプラスチック製のイスに腰を下ろした。そしてシャワーヘッドを持てと目線で指示してくる。


「あなたに洗ってもらえばいいのよ」

「僕が紅葉を洗うってこと?」

「そうよ、何か不満かしら?」


 僕は「別に不満はないよ」と言いながらシャワーヘッドを取り、まだ冷たい水を手に当てて適温になるまで待ってから、紅葉の肩にお湯をかけていく。


「イヴとノエルを洗ってあげてたからね。羨ましくなっちゃった?」

「べ、別にそういう訳じゃ……」

「2人きりだよ? 素直になって」

「……して欲しかったわよ」


 紅葉の返事を聞いて、僕は思わず口元が緩んでしまった。イヴが洗われているのを見ながら『いいなぁ』なんて思っている彼女を想像すると、少しだけ面白かったから。


「そう言えば紅葉」

「なに?」

「お風呂の時は髪下ろしてるんだね」

「瑛斗もそういうことには気付くのね」

「馬鹿にしてるの?」

「褒めてるのよ」


 初めから何か印象が違うとは思っていたけれど、髪に触れようとしたところでようやく分かった。ツインテールがストレートになっているのだ。


「こっちの方が大人しそうに見えるね」

「悪かったわね、口うるさくて」

「僕はどっちも好きだよ」

「……うっさい」


 紅葉は隠してるつもりなんだろうけど、目の前の鏡に映っちゃってるんだよね。嬉しそうに緩む表情と、体に巻いたタオルをギュッと掴む手が。


「早く洗ってもらえる?」

「わかった、髪濡らすよ?」

「ええ、お願い」


 彼女が頷いたのを確認してから、僕は少し勢いを弱めたシャワーを頭にかけていった。が、すぐに蛇口をひねってお湯を止めると、紅葉の前髪をかき分けて上げる。


「大丈夫?」

「な、何が?」


 彼女はとぼけて隠したいみたいだけれど、先程の一瞬を僕は見逃さなかった。

 お湯をかけるほんの少し前から、紅葉は両目をギュッとつぶっていたのだ。

 水が目に入ったなら誰でもそうするが、それはまるでシャワーを怖がっているようで――――――。


「紅葉ってシャンプーハットいるタイプ?」

「こ、子供扱いしないで! そんなのとっくに捨てたわよ!」

「なら怖くないの?」

「当たり前でしょ?」


 僕はその返事に何度か頷くと、試しにシャワーヘッドを彼女の顔に向けてみた。すると。


「っ……」


 やっぱり目を閉じて俯いてしまう。完全に顔にシャワーがかかるのを怖がっている人の反応だ。


「普段どうやって頭洗ってるの?」

「……目を閉じたままよ」

「危なくない? シャワー止める時とか」

「まあ、棚に頭をぶつけたことは何度かあるけど」


 確かに蛇口の上には洗顔料だったり、石鹸だったりが置いてあるガラスの棚がある。これに頭をぶつけるというのだから、いつか怪我してもおかしくないだろう。


「紅葉は海では嫌がってなかったよね?」

「シャワーヘッドから出る水が苦手なのよ」

「細い水がたくさんかかる感じ?」

「そうね、ホースとかなら平気だから」


 水自体が苦手な訳では無いのなら、克服できる余地は十分にある。

 目が開けられなくて転んだり、突き指をしてしまったりしても大変だ。泊めてもらうお礼とでも思って、今のうちに何とかしておいてあげようかな。


「紅葉、特訓をしようか」


 僕の言葉に、紅葉は「何言ってるの?」とでも言いたげに首を傾げた。

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