第148話

(……あれ……?)


 いつの間にか寝てしまっていたらしい。というより、助からないかもしれないという諦観のせいで、外界の何者も気に留まらなかっただけかもしれない。

 けれど、再び視界に映ったのは、寝ぼけ眼にぼやけて写る黒いスーツ。それとモーターボート。


瑛斗えいと様、イヴ様、もう暫しの辛抱です」


 スーツの人はボートから伸びた何かを浮き輪に取り付けると、そのまま岸へ向かってゆっくりと進み始めた。


「―――――紫波崎しばさきさん?」


 僕がそう問いかけると同時に、ようやく視界がはっきりとした。振り返りながら親指を立てて見せるその姿は、間違いなくノエルのマネージャーさんだ。


「もう帰ったと思ってました」

「本当は帰る予定だったのですが、まだノエル様を見守る癖が抜けていないようでして……」


 紫波崎さんは「怒られてしまいますので、ノエル様には内緒にして下さい」と頭を下げる。

 感謝すべきことなのに隠すというのはおかしな話だが、本人がそうして欲しいと頼むのなら断る理由もないよね。


「わかりました。ところで、紫波崎さんってボートの免許も持ってるんですか?」

「はい。私、ボートレーサーをしていた経験があるので」


 その一言に、僕は思わず笑ってしまった。紫波崎には本当に弱点らしい弱点が無い。

 こんな人に着いてもらえるのだから、ノエルはきっと安心してアイドルをやれているんだろうなぁ。

 そんなことを思いながら、僕たちはもうしばらく浮き輪の上で揺られていた。

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 本当のことがノエルにバレないように、僕たちはビーチから少し離れた場所に下ろしてもらう。


「ありがとうございました」

「いえ、やれることをしたまでですので」


 紫波崎さんはそう言ってボートを回転させると、何かを思い出したように顔だけをこちらに向けた。


「くれぐれもノエル様には内密にお願いしますね」

「もちろんです」


 何度も釘を刺すということは、ノエルって怒ったら怖いのだろうか。僕もそんな彼女は見たくないし、恩を仇で返すようなこともしたくないので、力強く頷いておいた。


「では」


 そのまま海の上を走り去るボートを見送り、まだ気絶しているイヴを背負って、浮き輪と一緒にビーチを目指す。

 イヴが軽くて助かったよ。そうじゃなかったら、今の疲れ果てた僕では一歩も歩けなかっただろうから。


「イヴ、早く休ませてあげるからね」


 僕は聞こえていないであろう声をかけながら、少しずつ歩みを進めていくのであった。

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「だから、さっさと捜索を始めて欲しいと頼んでるんでしょ?!」


 そんな怒鳴り声が聞こえてきたのは、僕たちが誰もいないビーチを抜け、家の中に入った瞬間だった。

 紅葉くれはが電話に向かって、ものすごい剣幕で怒りの声を発している。


「お姉ちゃん……どこ行ったの……」

「嫌だよ、お兄ちゃん……」


 ノエルと奈々ななうずくまって泣いていて、麗華れいかは完全に放心状態になっていた。


「あれ、みんな?」

「海の真ん中でモーターボートが爆発? おまけに港に変質者も出て、救助と聞き込みのせいで人手が足りない?! そんなの知らないわよ!」


 あれ、今モーターボートって言った?なんだか嫌な予感がする。紫波崎さんじゃないよね?


「私にとって、世界中の誰より瑛斗が心配なの!もし手遅れになったら絶対に――――――――――」


 そこまで言いかけて、紅葉は固まった。ドアの前に立っている僕と目が合ったのだ。

 彼女は手から受話器を落とすと、「え、瑛斗……?」と瞳をうるうるさせながら近付いてくる。


『もしもし?! もしもし?! くそっ、イタズラ電話だったのか?』ツーツー


 目の前まで歩み寄って来た紅葉は、固定電話のスピーカーから聞こえてくる声も気にせず、僕に抱きついてきた。


「うぅ……えいとぉ……」


 その声でようやく意識が戻ってきたらしく、奈々、ノエル、麗華もこちらを振り返って目を見開いた。


「お、お兄ちゃん……?」

「お姉ちゃんが……帰ってきた……?」

「うっ、辛すぎて幻覚が見えてるみたいです……」


 信じられないという顔をする3人に、「幻覚じゃないよ」と手を振ってみせると、彼女たちは同時にこちらへ駆け寄って来てくれる。


「ごめんね、もう大丈夫だから」


 僕たちの帰りを泣いて喜んでくれるなんて、単にうたた寝して気がついたら帰れなくなってたなんて言えないね。胸がすごく痛いし。

 お詫びと言ってはなんだけど、僕はみんなの頭や背中を撫でて落ち着かせてあげる。

 紅葉にだけ首をこちょこちょしたら、「……もっと」と言われてしまった。いつもなら『ペットじゃないわよ!』って叩かれるのに、相当弱ってるらしい。


「瑛斗、どうやって帰ってきたの……?」

「えっと、それはね」


 弱ってる割になかなか痛いところを突いてくるね。紫波崎さんにも頼まれてるし、何かそれらしい嘘を考えないと―――――――――――あっ。


「気付いたら港に流れ着いてたんだ」

「……港?」

「そうそう、漁師さんに引き上げてもらった」

「そこから歩いて帰ってきたの?」

「うん」

「……水着姿でイヴちゃんを背負いながら浮き輪も抱えて、人のいる場所を歩いてきたってこと?」

「―――――――うん、そうだよ」


 この後、結局僕は本当のことを話すことになってしまった。紅葉が電話中に口にした『港に出た変質者』だと勘違いされるのは御免だからね。

 紫波崎さんには今度会った時にでも謝ろう。まあ、無事だったらになるけど。

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