第141話
入浴から数時間後。
普通ならこのまま朝に目を覚ますところなのだが、彼女はじっとしていられなかったらしい。
その人物は少し離れた場所にある別の寝室から音を立てないようにそっと出ると、真っ暗な廊下を電気も付けずに歩いてくる。
彼女……
(ふふ、瑛斗さんが一人で寝てくれて助かりました。忍び込んでも気付かれにくいですからね)
麗華は心の中で笑うと、瑛斗の寝ているベッドのそばまで歩み寄り、そっと布団の中を覗き込んでみる。
(すごく幸せそうですね……)
寝顔を見ているうちに我慢できなくなった彼女は、悪いことをしているという実感と欲望とが渦巻く感情の中、少し震える指先を瑛斗の頭へと伸ばした。
(さ、や、やってしまいました……。でも、すごく触り心地がいいです……)
ずっと撫でていたくなりそうになって、麗華は慌てて手を離す。本来の目的を忘れてはいけないのだ。
彼女はベッドの端に腰掛けると、できる限り小さな声で話し始めた。
「瑛斗さん、本当はこんなこと面と向かって伝えるべきだと分かっています。でも、まだ私自身が過去を捨てきれたわけじゃないので、せめてこうして独り言だけでも零させてください」
そこまで言った麗華は、瑛斗が変わらず寝息を立てているのを確認してから続きを口にする。
「瑛斗さんには感謝してます。麗華という名前を取り戻せたのは、あなたのおかげです」
「すぅ……すぅ……」
「でも、まだ『麗華』と呼ばれると違和感を感じてしまうんです。おかしいですよね」
「……すぅ……」
「これからもしばらくは
「……」
「ふふっ。あの時のビンタ、結構痛かったんですからね?」
麗華はクスクスと笑うと、静かに立ち上がってもう一度瑛斗の寝顔を見ようと振り返った。そして。
「……へ?」
いつの間にか開いていた瑛斗の目と自分の視線とが交差し、一瞬で頭の中が真っ白になる。
「あ、その、えっと……あの……」
必死に言い訳をしようとするも、が上手く回ってくれない。
瑛斗はまだ寝ぼけた顔をしている、今すぐ逃げれば誰だったのか分からないのでは?そんな考えに至った麗華は、部屋から飛び出そうと扉の方を見た。
しかし、彼女には聞こえてしまったのだ。こちらに近付いてくる誰かの足音を。
「……瑛斗、起きてる?」
扉を開けて入ってきたのは紅葉だ。彼女はそっと部屋を覗き込むと、返事が返ってこないことを確認して中に入ってくる。
「……ね、寝てるのよね?」
不安そうにベッドに近付いてくる紅葉。彼女に見つかるまいととっさに隠れた麗華は、まさに彼女の足元……ベッドの下に潜り込んでいた。
麗華はどうして瑛斗が返事をしないのか不思議に思ったものの、下手に動くと先に部屋に来ていたことがバレてしまうため、呼吸を最小限まで抑えて床になりきっていた。
「……お、起きてたら殺すわよ?」
声を震わせながら、ベッドに体重をかける紅葉。彼女のセリフで麗華は瑛斗が黙っている理由に気がついた。
(
普段からツンツンしている彼女が、夜中に男の寝ている部屋に忍び込んだことがバレれば、それはもう赤面どころでは済まないだろう。
つまり、瑛斗は今猛烈に気を遣っているのだ。そう麗華は推理した。まさか、この短時間で本当に寝ているはずなんてありませんからね。
「
(東條さんも同じことを考えていたなんて……っというか、めちゃくちゃ本人に聞こえてますよ!私にまで聞こえちゃってますからね?!)
「別にここで寝たかったわけじゃないわよ?……ただ、前に更衣室で一緒に寝た時の安心感が忘れられなくて……」
(東條さん、独り言が全部聞こえてますよ? ていうか、その言い草だとここで寝るつもりですよね?!)
「少しだけ……ええ、少しだけよ。それならバレるはずないわ……」
(バレないはずがないんですよ!だって、瑛斗さん起きてるんですから!)
麗華の耳にベッドが軋む音が聞こえてくる。紅葉は本当に瑛斗が眠っているベッドに忍び込んだのだ。
しかも、本人がまだ起きていると知らずに。
「温かい……あの時と同じ温かさね……」
そっと瑛斗の手を握りつつ、少しのつもりがウトウトし始めてしまう紅葉。彼女が寝息を立て始めた頃、麗華は今のうちに逃げ出そうとベッド下から這い出―――――――――――。
ガチャッ。
――――――――――ることが出来なかった。
「お兄ちゃん、妹が寝込みを襲いに来たよ〜♪」
新たな障害が扉を開けて入ってきてしまったから。
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