第91話

 3の体が一斉に走り出した。

 そして、紅葉くれはだけがその場に留まっている。

 理由は怪我や痛みなどではなく、背後に立っていた幼稚園児の男の子に、スカートを引っ張られていたからだ。

 最初は強引に振り切ろうとしていた彼女だが、その子が応援をしに来てくれたのだとわかると、拒みづらいのか抵抗をやめてしまった。


「くれはおねーちゃん、がんばってね」

「あ、ありがとう。でも、もう始まってるから……」

「おかーさんからきいたがんばれるおまじない、おねーちゃんにもかけてあげる」

「えっと……」


 紅葉は困った顔をしていたけれど、50m先で3人がゴールしたのを確認すると、仕方ないというふうな表情で腰をかがめ、目線の高さを男の子に合わせる。


「お願いできるかしら」

「うん!おねーちゃんはできる!がんばればできる!いいこいいこ、やればできる!」


 男の子は呪文のようにそう唱えながら、紅葉の頭を何度も撫でる。おかげで髪が乱れてしまったけれど、応援された彼女の表情はすごく穏やかで優しいものだった。


「ありがとう。お姉ちゃん、頑張れる気がしてきたかもしれない」

「えへへっ♪おうえんしてるね!」

「ええ、よろしく頼むわ」


 嬉しそうに観客席へ戻っていく男の子をじっと見つめる紅葉。彼女は彼に撫でられた頭にポンポンと軽くタッチすると、もう一度アキレス腱を伸ばしてからレーンを7割程度の力で走り始めた。

 もしも、今までの観客達なら、『遅いぞ』だとか『もう無理だろ』なんてヤジを飛ばしていたかもしれない。

 しかし、男の子に対する紅葉の優しい笑顔を目にした彼ら、彼女らの中に、そんなことを考えたものはほとんど居なかっただろう。

 少なくとも僕は、勝負よりも男の子のエールを受け取った彼女の選択を、間違っているとは思えなかった。


「たった今、紅葉選手がゴールインです。これにて、50m走の結果が決まりました」


 彼女がゴールラインを踏み越えたと同時に、僕は観客に向けてそう宣言する。しかし、この時ばかりは白銀しろかね派も奈々なな派も、黒木くろき派の人だってどこかスッキリしない表情を見せていた。

 その意味するところを、彼女らは理解したのだろう。


「では、順位とポイントを発表―――――――」

「待ってください、瑛斗えいとさん」


 僕の言葉を遮ってまで、こう言ったのだから。


「なかなかいいウォーミングアップでしたね。次こそ本番にしましょう」

「ようやく体が温まってきたよ〜♪」


 額の汗を拭う白銀さんと、肩を何度も回すカナ。


「正々堂々と、ですからね?」


 対立状態にあるはずの奈々までもが、他の2人同様に再度レーンに並んだ。

 この状況は予想外ではあったものの、観客たちも文句は言わず、頷いているものも多かった。

 紅葉は頬に赤色を滲ませると、ぷいっとそっぽを向きながら、「……後悔しても知らないわよ?」と呟く。


「させて欲しいものですね、後悔」

「後輩を侮らない方がいいと思うよ〜♪」

「随分と自信があるようで何よりですよ」


 どこか照れたようにレーンに入った彼女に、皆がニヤニヤとからかうような視線を向け、そして一斉に真剣な表情へと変わった。

 空気がピシリと音を立てそうなほど張り詰め、それは僕の2度目の掛け声によって前進する力へと変換される。


 そして数秒後、本当の決着が着いた。


「結局、紅葉がビリだったね」

「う、うっさい!足が速いなんて誰も言ってないでしょう?!」

「まあ、身長が低いから仕方ないよね」

「うっ……身長のことは言わないでもらえる?」

「でも、女子で7秒台前半だから十分すごいと思うよ」

「……ほんと?」


 見上げてくる彼女に大きく頷いて見せると、少しだけ表情に笑顔が戻ってくる。


「まあ、他の3人は6秒台だったけどね」

「慰めたいのか落ち込ませたいのか、どっちかにしなさいよ!」


 事実を伝えただけなのに、この後12回も背中を叩かれてしまった。

 赤く腫れたりしないよね。もしそうなっていたら、紅葉の口の中にパチパチする飴を詰め込んで復讐しよう。

 心の中で密かにそんな計画を立てる僕であった。

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