第79話

「……あれ?瑛斗えいとが私の家のキッチンで何してるの?」


 眠そうな顔で首を傾げた紅葉くれはは、テーブルに並べられた皿を見て目を輝かせた。


「これってミルクレープ?!」

「くーちゃんも食べてみて!すごく美味しいわよ!」


 手招きするお姉さんに、いわゆる『あーん』で食べさせてもらった彼女は、ミルクレープを口に含んだ瞬間、口に手を当てて後ろによろけた。

 そして膝から崩れ落ちるように床に突っ伏すと、フローリングに拳を叩きつけながら言う。


「美味しすぎるっ……!」


 大好物だとは聞いていたけれど、まさかここまで喜んで貰えると思っていなかったから、少しだけ嬉しい。

 紅葉のこんな緩んだ表情なんて、そう多く見れるものでもないからね。本当に好きなんだなぁ。


「瑛斗くんって、料理もできるんでしょう?」

「難しいものでなければ。いつもは妹がしてくれてるので、腕は普通ですけれど」

「すごいわねぇ……家政夫として雇いたいくらいよ」


 お姉さんが「ね?」と紅葉に同意を求めると、彼女は少し考えた後、慌てたように首を横に振った。


「家政夫……って、それはだめ!絶対にダメだから!」

「くーちゃん、何を焦ってるの?あ、もしかして、家政夫になったら洗濯の時に下着を――――――」

「だまれぇぇぇぇぇっ!」

「ぐふっ?!」


 言葉を遮るように放たれたパンチは、お姉さんの脇腹にクリティカルヒット。椅子から転げ落ちた彼女は、「いいパンチだったぜ……」と親指を立てて、そのまま動かなくなってしまった。

 この姉妹、いつもこんな感じなのかな?だとしたら、家政夫の件は遠慮したいなぁ。

 やっぱり、部屋でのんびり静かに過ごせる時間って大事だと思うし。


「お姉さん、気を失ってるのかな?」

「つい力が入っちゃったから、しばらくは起きないかもしれないわ」

「そっか。紅葉は僕にパンチする時は、手加減してくれてたんだね」

「はぁ?! そ、そんなわけないでしょう!偶然よ、偶然!」

「なら、そういうことにしておくよ」


 バレたことが恥ずかしいのか、頬をほんのりと赤く染める彼女を横目に、僕は床にうつ伏せで倒れているお姉さんに歩み寄ると、腰の辺りに腕を回して持ち上げようとした。


「ちょ、ちょっと何してるのよ!」

「ソファーまで運ぼうと思って。このままって訳にもいかないでしょ?」

「それもそうだけど……」


 紅葉が言うには、思春期の男子高校生がお姉さんのような女性を抱えるのは問題があるらしい。

 確かに、お姉さんは身長が高いから、持ち上げるとなると僕の肩や腰が危ないかもしれない。ここは彼女の言う通りにしておこうかな。


「じゃあ、引きずっていくしかないね」

「それはそれで別の意味で危なくない?!」

「文句を言うなら紅葉が運んでよ」

「私に出来ると思う?か弱い乙女にさせる仕事じゃないわよ」

「―――――――――そうだね、僕が間違ってたよ」

「今の間は何?! あと、その素直さが怖いんだけど?!」


 心配そうに眉を八の字にする彼女に、「別になんでもないよ。か弱いってなんだったかなと思っただけだから」と答えると、「すごく失礼なこと言ってる自覚はある?」とジト目を向けられてしまった。

 結構オブラートに包んだつもりだったんだけど、紅葉の意図を読み取る力が思ったよりもあったらしい。


「仕方ないから、お姉さんには床に這いつくばっててもらおっか」

「言い方に問題が……」

「ほら、早く食べて。せっかく作ったんだから」

「え、ええ……」


 紅葉は催促されると、大人しく椅子に座ってミルクレープをひと口食べた。そしてもう一度、あの緩んだ表情を見せてくれる。


「本当に美味しいわね……。これ、瑛斗がひとりで作ったの?」

「―――――――ううん、それを作ったのはお姉さんだよ。僕は材料を渡しただけ」

「へぇ。お姉ちゃん、いつの間にこんなの作れるようになったんだろ?」

「紅葉に食べさせたいから練習したって言ってたよ。いいお姉さんだね」

「……ふふっ。ええ、私にとって自慢の姉よ」


 彼女はそう言うと、またミルクレープを食べ始めた。

 つい、嘘をついてしまったけれど、誰かを傷つける嘘じゃないから大丈夫だろう。一応、後でお姉さんにレシピを書いたメモでも渡しておこうかな。

 紅葉やお姉さんに褒められたくて作ったわけじゃないからね。むしろ、成功するか分からないものを人の家の材料で作らせて貰えたのだから、僕の方が得している気もする。


「また今度、作ってもらおうかしら♪」


 何はともあれ、僕はこの嬉しそうな顔だけでおなかいっぱいかな。


「僕の分も食べていいよ」

「そ、それはさすがに……」

「まだ口はつけてないから安心して」

「気にしてるのはそこじゃないんだけど。……でも、いいの?」

「うん。こんなに喜んでくれてるんだもん。そういう人に食べてもらうべきだからね」


 遠慮がちな目で僕を見つめる彼女の頬に手を伸ばし、ちょこんとついたクリームを指で取ってあげると、彼女は「あっ……」と声を漏らしながら恥ずかしそうに俯いた。

 僕はそんな彼女を微笑ましく思いながら、クリームをペロリと舐める。


「美味しいよ、紅葉」

「っ……う、うっさい!」

「?」


 この後、彼女はしばらく目を合わせてくれなくなった。なにか悪いことしちゃったのかなぁ。

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