第74話

「今日は温かいね。こんな日は、水が美味しいでしょ?」

『そうだね!ボクは別に毎日水飲まなくても大丈夫だけど!(裏声)』

「あ、確かに。本来は砂漠にいるんだもんね」

『そうそう。吹きかけるくらいなら水分過多にならないから、大丈夫だと思うけど(裏声)』


 土曜日の昼頃、ベランダで霧吹きをプッシュしていると、向かいの家の窓が開いて見慣れた呆れ顔が現れた。


紅葉くれは、こんにちは」

「……またサボテンと話してたの?」

「生き物との対話は大事だよ」

「どこの平和主義者よ。それで、そのサボテンは何を言ってるのかしら?」

「いつかこの家を抜け出して、人間を植物に変える計画に参加したいってさ」

「全くもって平和じゃなかったわね……」

『地球温暖化を止めるためだよ!(裏声)』

「それが本気なら、私は今すぐそのサボテンをへし折るわよ」


 紅葉が影のある笑みを浮かべると、サボテン君が『き、危険人物だぁ……(裏声)』と言ってプルプル震えた。

 と思ったけど、本当は抱えている僕の手が震えているだけだった。トゲが刺さってすごく痛いよ。


「冗談はここまでにしておくとして……瑛斗えいとは今日、何をしてるの?」

「僕は特に何もしてないよ。奈々は部屋でダイエットに励んでるみたいだけど」

「あのスタイルでまだ痩せたいと言うの?」

奈々ななはS級になりたいらしいよ」

「ああ、なるほど……」


 紅葉は何かに納得すると、「それなら……」と少し真剣な表情になった。こういう時の紅葉の言葉は、普段と違って大事な事だから、僕もしっかり耳を澄ましておく。

 僕が首を傾げたのを見て、彼女は安心したように小さく息を吐くと、喉奥で微かに震える声で言った。


「瑛斗、私の家に……来ない?」


 紅葉がこんなことを言ってくるのは初めてだ。部屋はいつもカーテンが閉めてあるし、覗きたい訳では無いけれど、彼女の部屋の内装を見た事は一度もない。

 友達の家になんて、小学生の時以来行ってないから、正直興味が湧いた。自分と同い年の人は、どんな部屋に住んでいるのだろうかと。


「行くよ」

「……そうよね、いきなり言われても無理……って、え?ほんと?!」

「自分から誘ったのに、どうして驚くの?」

「いや、まさか頷くと思わなかったんだもの」


 言葉は少しアレだけれど、彼女の表情を見るに、誘ったけれど来ないで欲しかったという感じでは無さそう。純粋に、思いがけない返事で戸惑っただけらしかった。

 紅葉も友達がいなかったわけだし、誘うことにも相当な勇気が必要だったのだろう。喜んでくれたみたいでよかったよ。


「じゃあ、すぐそっちに行くよ」

「ええ、玄関の鍵を開けて――――――って、な、何やってるの?!」

「何って、そっちに行く準備だけど?」

「いや、そんな『何かおかしいことしてる?』みたいな顔されても困るわよ!」


 「ベランダから入る前提で話さないでもらえる?!」と言われてしまったから、仕方なく取り出しかけていたハシゴを折りたたんでベランダの端に置き直す。

 いつかこういう日が来るかもしれないと思って、わざわざ物置から探して用意しておいたのになぁ。


「それに準備の時間が必要よ!終わったら連絡するから、少し待っててもらえる?」

「……紅葉、ゴミはゴミ箱に捨てないとダメだよ?」

「別にゴミ屋敷みたくなってるわけじゃないわよ?!少し掃除がしたいだけだから!」

「掃除なら僕に任せ――――――あ、待っておくよ」


 善意で言ったつもりだったのに、鋭い目付きで睨まれてしまった。どうやら、紅葉はどうしても僕に今の部屋の状況を見られたくないらしい。

 それが僕が男だからなのか、他人に見られること自体が嫌なのかは分からないけれど、そこまで拒絶されるなら無理に見ようとも思わないからいいかな。


「それじゃ、また後で」

「うん、楽しみにしてる」


 最後にそう言葉を交わして、僕らは互いに自分の部屋へと戻る。それから少しして、奈々がタオルで汗を拭きながら部屋に入ってきた。


「お兄ちゃん、柔軟がしたいから手伝ってくれない?」

「ごめん。もうすぐ紅葉から連絡があるだろうから、今日は手伝えないよ」

「紅葉先輩から?」

「うん、家に招待されたんだ。今は部屋を掃除してるみたい」

「……ふーん、そっか」


 奈々は何度か頷くと、「じゃあ、今度お願いするね!」と部屋を出て行った。何だか悲しそうな顔をしてるように見えたけれど、断り方を間違えちゃったのかな?

 慰めに行こうかと悩んでいると、机の上のデバイスが短く震えた。確認してみると紅葉からのメッセージで、準備が出来たから来てほしいとのこと。

 追うように『玄関からよ?』という一文も届いた。もう、紅葉ったら。僕だって一度言われたらわかるよ、子供扱いしないで欲しいよね。


『すぐに行くよ』

『ええ、待ってるわ』


 確認用にメッセージを送ってから、デバイスだけをポケットに入れて部屋を出る。玄関で靴を履き終えた時に、奈々に向けて行ってきますと伝えたけれど、返事は返ってこなかった。

 ただ、何か硬いものを床に落としたような、ゴンッという鈍い音だけが家の中に響いた。

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