第53話

 連休が明け、また学校が始まった。紅葉と出かけた日以外はゲーム三昧だった僕は、今日も少し寝不足で体が重い。

 それでも学校には行かないといけないのだから、これは一種の拷問だよね。今週も国語と数学と理科と社会がいじめてくるんだ。


紅葉くれは、おはよう」

「ん、おはよう」


 交差点での朝の挨拶も板に付いてきたなぁ、なんてちょっと嬉しい気持ちに浸っていると、僕の目は無意識に紅葉の横顔に焦点を合わせた。


「……なに?」


 じっと見ていたからか、僕の視線に気がついた彼女は小さく首を傾げる。「何でもないよ」と答えれば、「なら、あまり見ないで。見つめられるのは得意じゃないのよ」と困ったような顔をされてしまった。

 僕だって人と目が合うのは好きじゃない。何故かは分からないけれど、どこか気まずい気持ちになるから。けれど、今ばかりは仕方ないと思う。だって。


 ―――――――――ほっぺにご飯粒ついてる。


 白いご飯粒が、綺麗な肌の上にポツンとくっついているのだ。さて、これは一体どうしたものか。


「わからないなぁ」

「何が分からないの?勉強なら私が教えてあげるわよ?」

「今は大丈夫。もし見つかったらすぐに聞くよ」


 ――――――教えたい。ほっぺにご飯粒がついていると教えてあげたい。

 けれど、僕だって人の気持ちを考えることくらいはできる。女の子の気持ちは分からなくても、紅葉の気持ちなら少しだけ分かる気がした。

 もしも今、この場で指摘した場合、彼女は『どうしてもっと早く言わないのか』と怒ってくるはずだ。

 僕も少し前から気付いていたわけだから、その怒りはごもっともなんだけれど、分かりきっているのにわざわざ地雷を踏むような真似はしたくない。

 それなら、伝える方法を変えるのがいいだろう。僕が直接言うのではなく、それとなく誘導して自分で気付かせる作戦だ。例えば―――――――。


「紅葉、ほっぺ触ってもいい?」

「ダメに決まってるでしょ?」

「僕の腕は掴んだのになぁ」

「っ……あ、あれはちがっ……うぅ……」


 彼女は顔を真っ赤にすると、唸り声を漏らしながら顔を背けてしまった。ご飯粒に気付く様子はないから作戦失敗みたい。


「今日、少し暑いらしいね」

「そうね、涼しいくらいがちょうど良かったのに、どうして夏なんて来るのかしら……」

「地球が回ってるからだよ」

「……それくらい知ってるわよ。今のは夏が来て欲しくないって意味だから」

「夏が来ないと虫取りが出来ないよ?虫嫌いだけど」

「ならどうして言ったのよ」

「少年たちの気持ちを代弁しただけ」

「……誰も頼んでないと思うわ」


 そんな会話をしながら、「暑いなぁ」とハンカチで頬を拭って見せるけれど、紅葉は手のひらで顔を扇ぐだけで、やっぱり気付いてくれなかった。

 僕の伝え方が悪いのか、それとも紅葉が鈍感なだけなのか。どちらにしても、そろそろ校門が見えてくる頃だから、早く解決してあげないといけない。

 いつもツンツンしている紅葉のほっぺにご飯粒がついていたなんて噂が流れたら、彼女は屋上から飛び降りかねないし。

 かくなる上は実力行使に出ようかな。


「紅葉、ちょっとじっとしてて」

「ふぇ……な、何するつもり?」


 両肩を掴んでこっちを向かせると、紅葉は驚いたような声を漏らして目を見開いた。僕を見上げるその瞳は微かに震えていて、頬はほんのりと赤みがかっている。

 あれ?この表情、もしかして―――――――。


「紅葉、もう気付いてるんでしょ?」

「な、何のこと?」

「とぼけないで。僕、ずっと気になってたんだから」


 僕に顔を見られて照れるということは、何か恥ずかしいことをしている自覚があるということ。つまり、紅葉はご飯粒がついていることに気がついていて、それでもいつ取ればいいのか分からないでいたんだと思う。

 下手に動くと僕にバレるからね。見ていない時にでも取ろうと思ってたんじゃないかな。


「き、気に……私のことを……?」

「うん、ずっと見てたんだからね。もう恥ずかしがらなくていいよ」

「は、恥ずかしがってなんか!……ない、わよ……多分」


 紅葉は先程までより更に赤くなって、とうとう俯いてしまった。僕に気付かれていたことを知って、これまでの自分の行動が恥ずかしくなったらしい。

 僕はそんな彼女の首に手を添えて視線を上げさせると、できる限りの笑顔を浮かべた。多分、不慣れだから歪なものになってたと思うけど。


「紅葉、僕がするか自分でするか、選んで」

「え、選ぶって……い、今すぐに?」

「そうに決まってるでしょ。学校じゃ出来ないんだから」


 僕の言葉に、紅葉は納得したように頷いた。このほっぺにご飯粒問題は学校に着く前に解決しなければならない。

 けれど、紅葉がバレているとわかっても尚自分で取りたくないというのなら、僕が取ってあげようということだ。

 そして紅葉は、「……瑛斗にして欲しい」と小声で呟くと、余程恥ずかしいのかキュッと目を閉じた。


「紅葉、動かないでね」

「え、ええ……」


 僕を見上げた状態のまま、言葉通り動かないでじっとしていてくれる紅葉。首が辛そうだし、早めにとってあげようと頬に視線を向ける。

 同時に思わず、「紅葉、綺麗だね」という声が漏れてしまった。

 彼女の頬はいつ見てもすべすべモチモチしていそうですごく綺麗だ。こんなものを持っているのに触らせてくれないなんて、やっぱりケチだよね。


 今、このチャンスを逃す手はない。たとえ怒られたとしても、僕がこの行動を悔いることは無いだろう。


 そう心を決めると、僕は紅葉の両頬を指先で優しく撫でた。彼女の体が小さく跳ねたのが分かる。くすぐったいのかな?


「え、瑛斗?何やって……ふぁ……」

「すごく触り心地がいいね」

「そ、そこはだめ……っ」


 手の位置を少し下にずらし、首も一緒に撫でてあげると、紅葉はか細い声を漏らしながら身体を震わせた。


「ダメって言いながら、首を見せてくるのはどうして?」

「っ……言わせるなぁ……」

「?」


 質問したのに、答えてくれない。もうその余裕もないってことなのかな。怒ってるわけじゃないみたいだけど、撫でられるのに慣れていないから堪えるので精一杯らしい。

 僕も満足したし、そろそろご飯粒を取ってあげようかな。そう思って左手を肩に、右手を頬に伸ばそうとしたその時だった。


「お兄ちゃん!紅葉先輩!おはようございまーすっ!」

「ちょ、ちょっと!危ないわよ!」

「いきなりぶつかってきたら痛いよ」


 僕達の間に、奈々ななが割り込んできたのだ。彼女は「ごめんなさい!」と頭を下げると、「今日日直なの忘れてたから、先に行くね!」と背中を向ける。

 けれど、何かに気がついたようにこちらを振り返ると、呆然とする紅葉に歩み寄って肩をがっしりと掴んだ。


「な、何よ」

「紅葉先輩、今日も可愛いですね」

「お、お世辞はやめてもらえる?!嬉しくなんてないんだから!」

「そうですか……ほっぺにご飯粒つけてるなんて、幼稚園生みたいで可愛いのになぁ♪」

「誰が幼稚園せ…………え?」


 奈々の言葉に遅れて反応した紅葉は、慌てて自分の頬を探る。けれど、なかなかご飯粒を見つけられなくて、見かねた奈々がそれを取ってあげた。


「気付いてくれる人がいて良かったですね?」

「……うっさい」

「それじゃ、急ぐので!お兄ちゃんもまた後でね!」


 奈々はそう言って手を振りながら、台風のように去っていった。朝からあのテンション、同じ親の血を受け継いだはずの僕には無理だなぁ。


「奈々はすごいね。ご飯粒、あんなにあっさり取っちゃうんだもん。僕もずっと気になってたのになぁ」

「…………え、さっきのってそういうこと?」

「そうだけど、他に何があるの?」

「……ちっ」


 紅葉はそっぽを向くだけで、僕の質問に答えてはくれなかった。すごく小さな声で「また勘違いさせられたぁ……」と呟いているのは聞こえてきたけど。


「ねえ、紅葉?怒ってるの?」

「……怒ってないわよ」

「本当に?今ならなんでもしてあげるよ?」

「なら、もう勘違いさせるようなことはしないでもらえる?!」

「紅葉は一体何を勘違いしたの?」

「っ…………もういいっ!」


 彼女はぷいっと顔を背けると、「すぐに教えてくれないあなたが悪いんだから!」と早足で行ってしまった。


「やっぱり、タイミングって大事なんだね」


 気付いた時にすぐに言って置けばよかったと、少し後悔する僕であった。

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