第35話

 もう終わりだ……そう覚悟した瞬間だった。


『そこは私のロッカーですよ。触らないでください』


 その声で、ロッカーの前にいた気配がすっと遠ざかる。皆、口々に『ごめんなさい』だとか『すみません』だとか言って、着替え終わったのかそそくさと更衣室から出ていった。

 それからしばらく布の擦れる音だけが響き、やがて隣のロッカーの扉を閉める音が聞こえてくる。そして、私達を助けた人物はこのロッカーの前で立ち止まって、「危なかったですね、これで貸し1つですよ」と独り言のように呟いてから去っていった。


白銀しろかねさん、僕らに気付いてたね」

「そうみたいね。嫌な相手に貸しを作っちゃったわ……」

「お返しは飴でなんとかなるかな?」

「……なればいいわね」


 瑛斗えいとって、あんな危機的状況に瀕しても何一つ変わらないのね。女子更衣室に潜んでいるということも、クラスメイトの女子の着替えを覗いても、私とこんなにも密着していても、相変わらず呑気というか、馬鹿というか……。

 まあ、そりゃそうよね。異性に無関心なんだもの、私に対してだってなんの感情も抱いてないだろうし、おかしな気持ちを抱くことなんてあるはずが―――――――――――――。

 そこまで考えて、私は『あれ?』と首を傾げる。密着した彼の体からずっと伝わってきていた音。それが、初めよりもずっと早くなっていることに気が付いたから。


 ……もしかして緊張しているの?


 見た目は何も変わらないように見えるけれど、内心は恥ずかしがっていたりするのかしら。

 おかしな目で見られることは気に食わないけれど、こちらが勘違いさせられ続けたお返しができると思うと少し嬉しくなって、私は照れそうになるのを誤魔化しながらからかうようにもっと体を密着させてみたりする。


紅葉くれは、やめて」

「なにをやめてほしいの?ほら、言ってみなさいよ」

「そうやって体を当ててくるのだよ。もう外に誰も居ないんだからくっつく必要ないでしょ?」

「もしかしたら、また人が来るかもしれないわ。様子を見てからじゃないと出られないの」


 ロッカーから出ない適当な理由を口にして、彼の反応を確認してみた。やっぱり表情には出ないけれど、鼓動は早いままだし、体も小刻みに震えてる。

 これはつまり、私のことを異性として意識してるってことよね?余裕そうなフリしちゃって……結局、瑛斗も根は男の子ってことじゃない。


「紅葉、いい加減にして」

「っ……」


 ガシッと強く肩を掴まれ、心臓が跳ね上がる。あれ……私、調子に乗りすぎちゃった……?

 ゆっくりとこちらに近付いてくる彼の顔から、目を逸らしたいのに何故か逸らせない。これじゃ、キスされるのを期待してるみたいじゃない。


「ま、待って……心の準備が……」

「さすがにもう待てない。紅葉が意地悪したせいだよ」

「うぅ……」


 顔がすごく熱い。こんなはずじゃなかったのに……ってあれ?本当にこんなはずじゃなかったんだっけ?

 それなら、私はこんなことになりたくない相手の横に自分から寝転んだの?そんなのただのビッ……変態女じゃない!

 彼の体重の一部が徐々に私の肩にかかってくる。どちらにしても逃げられない。それなら、いっその事抵抗なんてしないでおこう。

 私は諦めなのか受け入れなのか、自分でもよく分からない感情のまま、全身から力を抜いた。いいように言えば、されるがままになる覚悟をしたってところかしら。

 一層重くのしかかってきた体重に覚悟の気持ちを強め、私は思い切って瞼を上げた。そして。


「トイレ我慢してるんだから、あまり力入れさせないでよ」

「…………へ?」


 気が付けば、私は瑛斗に抱えられてロッカーを出ていた。

 ……キスは?トイレ?我慢……って、そういうこと?!また全部私の勘違いなの……?

 自分の感情と事実が錯誤して混乱する。先程まで確かにあった覚悟の城が崩れていく映像が自然と頭の中で流れた。


「じゃあ、僕はもう行くからね。急がないと大変なことになっちゃう」

「え、ええ……行ってらっしゃい……」


 私は小走りで扉まで向かう瑛斗の背中をぼーっと眺めることしか出来なかった。すると、彼は突然何かを思い出したように立ち止まる。そして、こちらを振り返ると相変わらずの無表情で言った。


「自分の体は大切にしてよ」


 扉の向こうに消えていく姿に、私は返す言葉も思いつかず、ただ一言「……ごめんなさい」と一人で呟くだけだった。

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