第33話

 コツコツコツ……


 廊下の突き当たりを右に曲がった辺りからそんな足音が聞こえてきて、私の心臓がドキリと跳ねる。授業中のこの時間にここを通る人なんて滅多に居ないはずなのに……。

 でも、今人がこちらに向かってきているのは事実。曲がり角を曲がってくれば、ズボンを履いていない私と倒れている瑛斗えいとといういかにも怪しまれそうな構図を見られてしまう。


 か、隠れなきゃ……!


 本能的にそう感じた私は、火事場の馬鹿力で瑛斗の上半身を持ち上げ、足を引きずるようにしながら女子更衣室の扉の前まで移動する。

 そして、「今誰かいたような……」というテンプレ的なセリフを背後に受けながら、ギリギリ中へと滑り込んだのだった。



 コツコツコツ……コツコツコツ……


 足音が遠ざかっていく。さっき聞こえたあの声は、確かに怒ると怖いと噂の教頭のものだった。

 もし見つかっていたら、反省文程度では済まなかったかもしれない。あの人が怒っているところを、未だ誰も見た事がないらしいけれど。

 その第一人者に私がなる訳にはいかないのよ。ましてや、その内容がノーズボンで廊下徘徊なんて言われてたものなら、私はこの学校も人間も辞めるわね。

 変な目で見られ続けるくらいなら、山でクマと戦う方が数十倍マシよ。


「……その寝顔、ムカつくわ」


 元はと言えば、私がうっかり履き忘れるから悪いのだけれど、プールサイドにあるようなプラスチックの長椅子に寝転ばせた瑛斗が、「りんご果樹園……」と寝言を呟きながら寝ているのを見ると、無性に腹が立ってくる。私の頑張りをなんだと思ってるのかしら。


「……でも、こうしていればちょっと可愛いかもしれないわね」


 私は瑛斗の頬にそっと触れる。深く眠っているらしく、つんつんと突いてみてもピクリともしなかった。

 凶暴な虎だって、人を襲わなければ愛玩動物と変わらないもの。口を開けばイラッとさせられることもたまには……いえ、結構あるけれど、顔は悪くはないし、性格だって優しい方だと思う。

 まさに私の理想的な――――――――――――。


「……って、何考えてるのよ!こんなのが私の理想なわけないでしょ!」


 ブンブンと首を横に振って、まとわりついてくる雑念を飛ばす。けれど、もう一度彼の寝顔を見てしまうと、体の内側から同じものが溢れ出してくる感覚がした。

 振り払っても振り払っても、消えてなくなってなくなってくれないそれは外的要因じゃない。きっと私の本心だ。


「……なんて、馬鹿みたい。優しくされたからって、コロッと騙されてんじゃないわよ」


 自分に向けて嘲るように笑い、そして小さくため息をつく。息苦しいけれど嫌な空気じゃなかった。

 私は体から力を抜いて、ねむり姫のように目覚めることを知らない彼の隣で横になる。

 今から体育に行ったところで、きっと満足に体を動かせないだろう。それなら、人生初のサボりとやらをしてみよう。

 例え先生に怒られるとしても、彼と一緒だから不安は感じなかった。


「私が目覚めるまで、そこで寝ていなさいよ」


 そう囁いて瞼を下ろす。

 彼が次に私を視界に捉えるまでは、騙されたままでいられる。全部勘違いだなんて、自覚しなくていいのだから。



 意識がより深いところに落ちた瞬間、私は人生で初めて―――――――――――馬鹿になった。

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