第32話

 急いで教室に戻った私と瑛斗えいとは、体操服と体育館シューズを持って更衣室まで走った。そして扉の前で「また後で」と伝えて中へと駆け込む。


 背後で扉が閉まる音がするのと同時に、私は制服のボタンを外し、スカートのチャックを開けてシャツと一緒に空いているロッカーに投げ入れた。

 いつもならこんな適当なことはしないけれど、今ばかりはそんなことも言っていられないもの。

 ……とは言うものの、下着の位置はちゃんとしておかないとよね。体育でズレたりしたら、治すのが大変だし。

 姿見の前で確認しながら……うん、これでいいわ。

 自分の満足げな顔を見てしまって、少しの照れを感じつつ体操服に腕を通す。

 スポッと首を出し、『そう言えば、去年から体操服の大きさ変わってないのよね』なんて思いながら自分の胸元に触れると、少し前のことが頭をよぎった。


 ……奈々ななちゃんの、私のより大きかったわね。


 制服の上からでもわかる勝者感。様々なブツに劣等感を抱いてきた私にはわかる。あれは少なくともCの後半はあるわね。

 着痩せするタイプならDも有り得るかもしれない。可能性がある、その事実だけでも私からすれば羨ましい事だった。

 って、そんなことを考えたかったわけじゃないでしょ!そう、考えるべきは最後にあの子が囁いてきた言葉よ。

 奈々ちゃんは私の横を通り過ぎる瞬間、確かにこう言ったの。


『お兄ちゃんを落とせるなんて、思わない方がいいですよ?』


 私の考えが読まれただとか、あの作戦ノートを見られたのかも……なんてこと、今はどうでもいい。

 だって、あの言葉に含まれたもっと重要な意味に、私は気が付いてしまったから。


「……奈々ちゃんは彼を落とす勝負のこと、知ってたってことよね」


 もしかすると、偶然『落とす』という単語が被っただけかもしれない。ブラコンな妹なら可能性も無くはないと思う。

 でも、果てしなく低い確率を考えるよりも、勝負について言ったのだと思った方が頷けるのも事実。

 もしそうであると仮定するなら、今度はどうしてS級ではないあの子がそれを知っていたのかと疑問が生まれるわけだけれど……考えられる理由は2つ。


『どこかのS級が奈々ちゃんと繋がっている』

『S級レベルだとして、学園長が奈々ちゃんにもメールを送った』


 ただ、後者の線は薄いと思う。

 学園長はあくまで『S級の女生徒』と明記していたから、そこにわざわざA級のあの子を含むとは考えにくい。もしもそうなれば、報酬ありの正式な勝負として成り立たなくなってしまうから。

 ということは、自然と前者が答えになってしまうのだけれど、逆にわざわざS級が手を組む理由がわからない。


 そもそも瑛斗に接触しているS級は私と白銀しろかね 麗子れいこくらいで――――――――って、まさか……そういうこと!?


 あの愛想笑い女……今日一日大人しいと思えば、妹から情報を仕入れようとしていたなんて。

 確かに本人があんなだから、家族から聞き出す方が簡単かもしれないけれど、そんな姑息な手段に出るなんて卑怯者よ!

 ……でも、卑怯な手段に出なければ勝てない勝負であることは私もわかっている。分かっていながら、瑛斗の一番近くにいる気になって安心していたの。

 もしも本当に奈々ちゃんが白銀 麗子に味方しているのだとすれば、瑛斗の情報はあちらに流れるばかり。本当に彼の一番近くにいる存在が敵になってしまう。

 今は私の方が優勢に見えるけれど、いずれ手札の差で圧倒されることになるわ。これはなかなかにまずいわね。


「いえ、弱気になったらダメよ。奈々ちゃんと白銀 麗子の繋がりはまだそこまで強くないはず。すぐに動けば引き込める見込みはあるわ」


 自分の言葉に大きく頷いて、「よしっ!」とやる気を固めた。直後、ドアの外から瑛斗の声が聞こえてくる。


『紅葉、早くしないと遅刻しちゃうよ』

「ごめんなさい、すぐに出るわ」


 私はそう返事をしてから、ロッカーに入れておいたシューズを手に取って、駆け足で廊下へと飛び出した。

 そして瑛斗の顔を確認すると、「待たせちゃったわね」と彼の腕を掴む。男の子を落とすためにはボディタッチが効果的って、ネットに書いてあったのよ。決して私がしたくてしてる訳じゃないから、勘違いしないでちょうだいね。


「体育館はこっちよ。さあ、急ぎましょう」

「紅葉、ちょっと待ってよ」

「あなたが急げって言ったんでしょう?いいから走りなさいよ」

「そう?紅葉がいいならいいんだけど」

「……何が言いたいの?」


 やけに意味深な雰囲気を漂わせる彼の口調に、私はその場で足を止める。同時に授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。


「紅葉、大変な忘れ物してるよ」

「忘れ物?そんなはず―――――――――あっ」


 シューズは持ってる、髪を結うゴムも手首に付いている。下着だって着けてるし、体操服の前後ろだって間違えて……と確認して、ようやく私は気が付いた。


 ―――――――履いていなかった、ズボンを。


 考え事をしていたせいで、上を着ただけで満足してしまっていたのよ。目の前に鏡があったと言うのに、どうして最後に確認しなかったの……。

 顔が熱くなって行くのを感じて、私は両手で顔を覆った。でも、すぐに隠すべき場所がここだけじゃないことを思い出して、体操服の裾を左手で引っ張る。


「み、見た……わよね?」

「――――――ううん、見てないよ?」

「間があったわよ。でも、見られていないなら良かったわ。今日はお気に入りの水色だったから」

「えっ、ピンクじゃなかった?」

「や、やっぱり見てるじゃない!」

「犬の絵も可愛かったよ」

「あれは猫よ!……って、すぐに忘れろ!記憶を消せぇぇぇっ!!!」


 脇腹に一発、怯んだところを後頭部にもう一発、と拳を捻りこむと、彼は「僕のズボン……使ってもいい、よ……」と言いながら廊下に倒れて動かなくなった。

 ここまでされても私のことを心配してくれるなんて、むしろその優しさが怖いくらいよ。優しさが少しズレている気もするけど。


「……使うわけないでしょ、ばか」


 少し頬が緩んでしまったのは、私だけの秘密。下も履かずに倒れてる男の子の前で笑ってるなんて、他の人から見たらやばい光景だもの。



 そんなやばい光景の広がるこの場所に、何者かの足音が聞こえてきたのは、それから数秒後の事だった。

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