第15話

 こういうこともあるもんなんだなぁ。なんて思いながら、僕は向かいのベランダに立つ人物を眺めていた。

 彼女は紛れもなく、先程家の近くで『また明日』と別れた相手、紅葉くれはだ。口調などからして生き別れの双子というわけではなさそうだし。


「あなたの家、そこだったのね……」

「うん、紅葉が裏側に住んでるとは思わなかったよ」


 距離が3mほど離れたベランダ同士での会話なんて、アニメの中だけの話だと思ってたけれど、意外と現実でも起きるものなんだなぁ。


「その割に、あまり驚いていないみたいだけど……」

「そんなことないよ。初めて酸素を吸った時と同じくらいは驚いてる」

「比較対象が分かりづらすぎるわよ」


 そもそも、産声を上げた瞬間に驚きという感情を認識できるのかしら……と顎に手を当てて首を捻る彼女。

 ちょっとした冗談だから、そこまで本気で悩まれると困っちゃうな。


「ていうか、『また明日』って言ったのに約束破っちゃダメだよ」

「……そこ、気にするところ?別に会いたくて会ったわけじゃないないし……」

「僕は友達に会えて嬉しいけどね」

「ど、どっちなのよ!」


 怒ったようにベランダの壁をぺちぺちと叩きながらも、小声で「友達……ふふ」なんて声が聞こえてきた。多分、紅葉も無意識だと思うから言わないでおこう。


「それにしても、まさか曲がる角が1つ違いだとはね。もっと遠くだと思ってた」

「私も夢にも思わなかったわよ」


 玄関のある方を顔だとすると、紅葉の家は僕の家と背中を向け合っていることになる。つまり、彼女は僕が曲がった道よりもう一つ奥の道を左に曲がって家に帰ったのだ。

 家がどの辺だなんて話はしなかったから、お互いに相手がまだまだ遠くだと勘違いし合ってたんだね。思い返すと少し笑える、ほんの少しだけね。


「あれ、でもその部屋ってもっと年上のお姉さんが使ってなかった?僕、何度か見かけたことがあるんだけど」


 僕はこの部屋をもう10年は自分のものとしている。外に遊びに行く訳でもないから、家にいる時は大半をここで過ごすことになるのだ。

 すると、必然的に窓の外の景色が目に入る機会も増える。その中で、向かいの部屋にいるお姉さんを認識したことは少なくはない。

 僕の目は節穴じゃないし、勘違いとかではないと思うんだけどなぁ。


「あんな綺麗な人と、紅葉を見間違えるはずはないよ」

「……あなた、一回そこから飛び降りてみない?」


 バキバキなんて音はならないけど、左手のひらに拳にした右手をぺちぺちとぶつける紅葉。こめかみがピクピクしているあたり、相当ご立腹らしい。

 ただ、3mという距離が約束されているせいで、学校の時のように僕を攻撃することは出来ない。彼女はその代わりに、ぷいっと顔を背けてしまった。


「どうせ私は綺麗じゃないわよ」

「ごめん、言い方が悪かったよね。紅葉は綺麗じゃなくて、かわいい部類でしょ?」

「っ……そ、その急に褒めるの、やめなさいよ!」


 また顔を真っ赤にして怒られてしまった、本心を伝えたつもりなのに。奈々ななはかわいいと言うと喜んでくれるけど、紅葉は綺麗の方が嬉しいのかな。

 もしかすると、少し幼めの見た目だからコンプレックスなのかも。それなら悪いことしちゃったなぁ。


「紅葉も綺麗だよ。肌とかぷにぷにだし」

「い、いつ触ったのよ?!」

「いや、見ればわかる」


 僕の言葉に、紅葉が「瑛斗って意外と遊んでるタイプなのかしら……」と呟いてたから、「いつも家にこもってるよ」と答えたら呆れたようにため息をつかれてしまった。

 ちゃんと疑問は解決してあげたはずなのに。


「あ、でもこんな話してたら触ってみたくなってきた。明日、予約していい?」

「いいわけないでしょ!?てか、人を勝手にホットペッ〇ー制にしないでもらえる?」

「ちょっと何言ってるか分からない」

「わかりなさいよ」


 最近の女子高生の言葉は僕には難しすぎるからね。古文の方がまだ簡単なレベルだよ。


「ちょっとだけだから、だめ?」

「ダメだって言ってるでしょ」

「先っぽだけだからさ」

「……あなた、いやらしいこと考えてるの?」

「?」


 指先だけって意味なんだけど、他に何かあるんだろうか。女の子の考えてることはやっぱりよく分からないや。


「まあ、そんなわけないわよね。恋愛無関心らしいし……」

「ん?何か言った?」

「いえ、なんでもないわ。とりあえず、あなたに肌を触らせるのは却下だから」

「なら、これでどう?」


 僕はそう言いながら、右手の三本指を立てて見せる。


「この条件で紅葉のこと、好きにさせて」

「……は、はぁ!?私をその程度のお金でなびく女だと思ってるの?見くびらないでちょうだい!」


 紅葉は僕を睨みつけながらそう言うと、ベランダにあったのであろう物干し竿を手に取って、こちらまで伸ばしてくる。

 まるでこれからこの棒で殴りますよと言われているような気がしてしまう。でも――――――――。


「待って、お金ってなんのこと?3分だけ触らせてって意味だけど」

「…………へ?」


 僕がそう言うと彼女は一瞬固まって、それから慌てたように物干し竿を引っ込めた。


「べ、別に勘違いなんてしてないから……!」

「そっかぁ。お金なんて言うから、てっきり物干し竿を高値で買い取らされるのかと思ったよ。……あれ、じゃあさっきのお金ってなんの事だったの?」

「う、うるさいわね……なんでもないわよっ!」


 プンプン怒りながら、物干し竿と共に部屋へと引き返していく紅葉。


「あ、3分は……」

「却下に決まってるでしょ!」


 勢いよく閉められた窓とカーテンの向こうに消えてしまった彼女の影をぼーっと眺めながら、僕はそっと霧吹きをワンプッシュした。


『僕の肌で我慢しなよ(裏声)』

「サボテンくんはトゲトゲしてるからやだよ」

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