間違いなく君だったよ~僕じゃない~

猫柳蝉丸

本編

 今朝もまた憂鬱な時間がやってきた。

 梅雨入りしたと言うのに爽やかに晴れ渡った空が恨めしい。

 嗚呼、空よ。何故に君はそこまで蒼穹なのか。

 妙に詩的めいた表現を考えてみて、自嘲する。

 馬鹿げている。全く馬鹿げている。空が蒼いのは当たり前で、私が憂鬱なのは私自身が原因なんだ。蒼穹に八つ当たりしてみたって何も変わらない。それこそ馬鹿げているくらいに何も変わらないんだ。

 と。

「おはよう! 塔子さん!」

 元気のいい声が私の耳に届く。

 お隣に住んでいる幼なじみの麻衣ちゃんは、やっぱり今日も元気いっぱいみたいだった。可愛らしくまとめたツインテールが風に揺れるのがとても微笑ましい。平均より少し低い身長も無邪気で童顔の彼女にはよく似合っている。

「ああ、おはよう、麻衣ちゃん。今日も元気いっぱいだね」

「うん、今日も元気だよ、塔子さん! 学校の人気者の塔子さんと毎日登校出来るのに元気じゃないなんて失礼この上ないってやつだよ!」

「それなら私も元気な麻衣ちゃんに負けないように元気を出さないとね」

「ううん、塔子さんはいつもみたいに落ち着いてくれてるくらいでいいよ! その方がカッコいいもん! そんなカッコいい塔子さんを私は今日も独り占め!」

「はは、お手柔らかに頼むよ」

「……この人さえ居なかったら本当に独り占めなんだけどね」

 麻衣ちゃんが自分の隣に立っている男子に冷徹な視線を向ける。

 私のもう一人の幼なじみ、博人君が軽く微笑んでから言い返した。

「おいおい、そんな言い方は無いじゃないか、麻衣ちゃん」

「それくらい言わせてよ。いつも言ってるけど、高校生になってもお兄ちゃんと一緒に登校なんて恥ずかしいんだから。いい加減、私と塔子さんだけで登校させてよね」

「向かう方向は同じなんだからいいじゃないか」

「時間まで合わせる必要無いでしょ」

「ちょっと離れて歩いてるんだから大目に見てくれよ」

「大目に見れません」

「そこを何とか」

「ダメ」

 お隣の兄妹の仲睦まじいやり取り。それはとても微笑ましいはずなのに、私には作り笑いしか出来ない。薄っぺらい作り笑いを浮かべる事で自分の心と自分達の関係を守る事しか出来なくなった。

 いつからだろう……、なんて振り返るまでもない。こうなったのは中学生の頃、私が自分の恋心に気付いてからだって事は自分でもよく分かっている。初恋を知って以来、私はずっと作り笑いを浮かべ続けているんだ。

 私は二人に気付かれないように嘆息してから、私が好きな、間違いなく私が好きだった初恋の相手に視線を向ける。

 村田博人君。三歳の頃、私の家の隣に村田一家が引っ越して来てからの幼なじみ。

 博人君は幼い頃から優しかった。背が高めで髪も短く、一見すると少年のような私とよく遊んでくれた。大人しくて背が低い博人君と並ぶと男女が逆転しているみたいだってからかわれたのも今となってはいい思い出だ。私は博人君の妹の麻衣ちゃんを交えて、三人でよく遊んだ。本当によく遊んだ。ずっと一緒に居たいって思えるくらい大切な幼なじみだった。

 私がいつしか博人君に惹かれるようになったのは、当然の帰結と言えるかもしれない。博人君はそれほど魅力的だった。中学生になって男子の誰より背が高くなった私を、博人君は変わらず女の子として扱ってくれた。正反対と言える可愛い麻衣ちゃんと同じように、私を女の子として扱ってくれたんだ。こんなに嬉しい事なんて他に無かった。

 私はボーイッシュとよく言われる。クールでカッコいいイケメンとも。そう言われて嫌な気分ではないけれど、それは私の気質に合っているからそうしているだけであって、別に男扱いされたいわけじゃなかった。かと言って、可愛いと言われたいわけでもない。私はただ私という女として生きてきた。性格が少し男子寄りの女子。それが私だった。

 博人君に告白しようと思った事は何度もある。けれど、その度に思いとどまった。告白する勇気が無かったというのもあるけれど、それ以上に博人君の不思議な視線に気付くようになってしまったからでもある。初恋を自覚して以来、私は博人君が備えている微妙な違和感に気付いたんだ。

 幼なじみという贔屓目があるにしても、博人君は魅力的な男子だと思う。

 背は平均より少し低くはあるけれど、整った顔立ちに柔らかい物腰に惹かれる女子が居てもおかしくはない。それでも博人君の周囲には私と麻衣ちゃん以外の女っ気が無かった。風の噂だけれど、クラスメイトに告白されて断ったという話を聞いた事もある。

 ひょっとして……、と思春期の頃の私は考えた。

 博人君の胸の中には意中の相手が居るんじゃないかと。

 私だ、と即答出来るほどの自信が私には無かった。だから観察する事にしたんだ、博人君の一挙手一投足を。そうして博人君の意中の相手を見極められた時、私の方から告白しようと決心した。今となっては虚しい決心だったと思うけれど。

 最初に思ったのは、博人君が好きなのは実の妹の麻衣ちゃんなんじゃないかって事だった。実の兄妹の恋心を疑うなんて馬鹿げた考えだと思われるかもしれない。でも、博人君と麻衣ちゃんの間にはそう思わされる危うさは確かにあった。私を除くと博人君に一番近い女の子は妹の麻衣ちゃんだった。中学生になってもずっと一緒に登校しているのも怪しくはあった。ひょっとして麻衣ちゃんを他の男子に渡したくなくて、監視しているんじゃないか。そう思わされた。

 そう思う理由の一つには博人君の視線があった。博人君は麻衣ちゃんを見つめる時、まるで恋でもしているかのような優しい表情を浮かべる事があったんだ。これで二人の関係を疑うなと言う方がおかしいというものだった。

 結果的に言おう。私の妄想は単なる妄想でしかなかった。

 ある意味では、妄想でなかった方が私には救いだったのかもしれないけれど。

「こんな人なんて放っておいて行こうよ、塔子さん!」

 麻衣ちゃんが私と腕を引いて歩き始める。

 いつもの行動、いつもの光景、麻衣ちゃんはいつだって無邪気で可愛らしい。

 そして、そんな私たちを見つめるいつもの博人君の視線が、私をいつも射竦める。

 表情に出さないようにしていたって、いつも博人君を見ている私には分かる。

 博人君が今まさに、恍惚の表情を浮かべているんだって事を。

 そうだ。そうなんだ。博人君が好きなのは麻衣ちゃんじゃない。私でもない。

 私と麻衣ちゃんの関係そのものが好きなんだ。

 気付かされたのは梅雨入り前の雨の日、突然のにわか雨に降られた私と麻衣ちゃんが一緒にシャワーを浴びていたのを目撃された時だった。あの時の博人君は今まで見た事が無いくらいに興奮していた。私の裸体にではない。麻衣ちゃんの裸体にでもない。裸体なんて博人君には何度も見られた事がある。博人君は何とも思ってないのは分かっている。つまり、私と麻衣ちゃんが二人でシャワーを浴びているという事実に、博人君は心の奥底から興奮していたんだ。

 こんな俗っぽい言葉で表現するべきなのかは分からない。

 けれど、あえて俗っぽい言葉で言わせてもらうと、博人君は、そう……。

 百合豚なんだ。

 そういう人種が存在している事は知っていた。私は背が高くて髪も短いから、女の子に言い寄られた事も何度かあるから分かる。世の中には女の子の事が好きな女の子が居て、そんな女の子達の関係に死ぬほど興奮する人種が存在するという事くらいは。

 それ自体は別に構わない。女の子が女の子を好きになったって自由だ。私は女の子が恋愛対象ではないけれど、それだって私の自由だ。博人君が百合豚だって自由なんだ。誰だって自由に何を好きになったっていいんだ。いいはずなんだ。

 でも、それなら、私はどうしたらいい?

 百合豚の博人君の事を好きになってしまった私は?

 麻衣ちゃんは同性愛者じゃない。よく抱き着いて来たりしてくれるけれど、それは単なる親愛の情だって私は知っている。私はそんな麻衣ちゃんの事が嫌いじゃないし、実の妹みたいに大切にしたいと思ってる。単なる姉妹みたいな関係なんだ、私達は。

 博人君はそうは思ってはいない。博人君は私と麻衣ちゃんが恋愛関係にあると思っている。いや、少なくともそうであってほしいと思っている。それでずっと私と麻衣ちゃんの近くに居たんだ。私と麻衣ちゃんの恋愛関係を傍観者として尊く思うために。

 何の冗談なのかって思わされる。まったく、ひどい冗談でしかないと思う。

 それでも現状は冗談ではないし、私の置かれた現状は間違いなく現実だった。

 いっそ博人君に告白してしまえば、と思おうとして振り払う。

 麻衣ちゃんと恋愛関係でない私にどれだけの価値があるのか、自分でも分からない。怖い。自分の考えを行動にしてしまうのが。麻衣ちゃんとの関係を取り払ってしまえば、博人君にとって私なんてただのボーイッシュな女子でしかないのかもしれないんだから。

 想像出来る。私が博人君に告白してみた時の博人君の反応が、ありありと。



――博人君、私は君の事が好きだよ、子供の頃から。


――違うよ、塔子ちゃん。塔子ちゃんが好きなのは僕じゃないと思う。


――何を言っているんだい、博人君。私が好きなのは君なんだよ、間違いなく。


――そうじゃない。塔子ちゃんは僕が妹の麻衣ちゃんに似ているから好きな気がしているだけなんだよ。僕じゃないんだ。自分の恋心に嘘をつかないで、塔子ちゃん。僕は塔子ちゃんの本当の恋心を応援しているから。それが僕の望みでもあるんだから。



 私の恋心はその時こそ終わるんだろう。多分、こんな風にでも。

 けれど、それが分かっていてさえ、私は博人君から離れる事が出来ない。

 いくら百合豚と言っても女の子と恋愛したくないわけではないはずだから。それが私の一縷の望みでもある。たった一つの光明ではある。希望を捨てるのはまだ早いのだと思いたいから。

 それでも、思う。

 百合豚は百合妄想しているカップルの片割れと恋愛したいと思うものなのだろうかと。百合豚は意識が高い人種だと聞いている。例えば百合に挟まりたい男というものは万死に値する存在らしい。明らかに意識が高い百合豚である博人君が百合に挟まりたいなんて思うだろうか? 挟まりたいとは思わないまでも、その片割れと付き合いたいなんて思うだろうか? もしかしたら好みのタイプなら付き合いたいと思うかもしれない。いや、それでも、と私は考えてしまうんだ。それでも、ボーイッシュな方に惹かれる可能性なんてあるのだろうか、って。

 答えは出ない。答えは出せない。出せるはずもない。

 そうして、私は現状維持で梅雨の時期の蒼穹の下を歩いていく。

 ボーイッシュなくせして、女々しく生きていく。

 恐らく、いや、きっと、私の事を好きになりはしない博人君達と一緒に。

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