#16 取り消した告白


 「ごちそうさまでした!」

 「ごちそうさまでした」


 カニの残骸がのったテーブルを前にして、俺たちは満足そうに合掌する。


 先ほどまで夜のお楽しみとして冷蔵庫に鎮座していたタラバガニは二人の胃中に納められて、無残な殻が残るだけになっていた。


「いやー、美味しかったですねせんぱい! 汚い手を使って買った甲斐がありましたよ!」

「あれはあくまで値切っただけだ。物騒なことを言うでない」


 と、誤解を招く言い方の白鈴を注意しながら、俺は使った皿や箸といった食器を台所へ運ぶ。

 そんな俺の働き様を見て、ベッドに腰をかける白鈴はしみじみとした様子で言う。


「家事を手伝う夫。やっぱりせんぱいはいい旦那さんですね」

「誰が夫だ。それより、白鈴も少し手伝ってくれないか? 結構多い」

「今行きますよ、あなた!」


 とんちんかんな台詞と共に白鈴が台所へ駆けつけてくる。もうこれだけ長くいれば、頭の悪そうな台詞に反応することもなくなってきた。

 白鈴は俺の横に並んで、皿を洗い始める。


「なんだかこうやって一緒に家事してると、ほんとに新婚さんみたいですね」

「へいへい、そうだな」

「子供ができたら、せんぱいもちゃんと面倒みてくださいね?」

「子供ができたらな」


 白鈴の下手な冗談に、これまた下手な冗談で返しながら皿を擦る。


「今日はお風呂どうしますか? 一緒に入りますか?」

「……質問がおかしくないか? それ」


 正しくは『今日も銭湯に行きますか?』が適切だろう。

 すると流石の白鈴も訂正してくる。


「間違えました。今日は銭湯で一緒に入りますか?」

「いや、肝心なところが直ってないんだが」


 呆れ混じりのツッコミを返しながら、壁に掛けられた時計に目をやる。

 時刻は午後21時半を指しており、非常に微妙な時間である。

 というのも、


「でも今からだと銭湯が開いてるか分からないな。確かあそこは22時に閉まるはずだった気がする」

「なら、私と二人で入るしかありませんね! お風呂沸かせて来ます!」

「いや待てちょっと待て、全速前進で待て!」


 先走る白鈴に意味のわからない言葉をかけて引き留める。こいつ、行動が早過ぎる。

 危うく、我が家の水道代に余分な額が追加されるところだった。


「今日も銭湯に行こう。営業時間ギリギリだから、多分人も少ない」

「えー、それじゃあせんぱいと洗いっこできないじゃないですかー?」

「混浴だったとしてもそんなことはしない」


 きっぱりとそう言って、皿洗いを終える。

 流れるようにクローゼットを開けて、着替えとタオルを取り出す。

 食休みはしていないが、俺はこれで準備が整った。


 準備万端の風貌で白鈴に視線を送ると、彼女は顔をしかめるが仕方なさそうに頷きを見せた。


「……分かりました。でもまあ、銭湯までの道は寒いので、せんぱいの腕に抱きついて行こうと思います!」


 白鈴はそう決意を露わにすると、急いで出発の準備を始めた。



 ○○○



 「じゃあ白鈴、出たらここで待ち合わせな」

 「御意!」


 昨晩もやってきた銭湯のフロントで、『女』の暖簾をくぐっていく白鈴にそう呼びかける。

 それに敬礼で答える白鈴は見てるこちらが恥ずかしいが、如何せん客が少ないのでまあいいだろう。


 白鈴と反対に俺は、『男』の暖簾をくぐる。


 脱衣所に進むと、そこは閑散を通り越して誰一人いなかった。

 昨日はちらほらとご老人がいたが、荷物の置かれた竹籠は一つも見当たらない。営業時間ギリギリの恩恵だろう。

 その空間には、俺が移動する足音しか聞こえない。

 はずだったのだが、


 ――ラインッ♪


 俺のポケットから雰囲気もクソもない通知音が鳴り響く。

 でも驚かなかったのは、この前と比べて音量が小さかったからだ。


 それにしてもこんな夜更どきにラインを寄こすなんて、一般常識の欠如した奴である。

 だが、俺が連絡を取るような人間なんて限られているわけであり、画面に映る名前を見なくても大方の予想はつく。


 母親、父親、妹、数名の友人、西ノ瀬、公式アカウント。

 そして後輩、白鈴雛乃。


『せんぱい、貸し切りみたいですよ!』


 文字を見ただけで、そのはしゃいでる姿が目に浮かんでくる文章である。

 どうやら女湯の方もこちら同様に、空いているようだ。

 

『男湯も貸し切りみたいだ』


 それを送信するとすぐに既読の表示がつく。白鈴のことだから、スマホを片手にして着替えていそうだ。

 だがそんな感想を抱いた途端、何やら怪しい一文が送られてくる。


『あんまりがっつかないでくださいね? せんぱい』


 ? 

 俺はその意味が分からなかった。

 がっつく? ゆっくり湯船に浸かれ、ということか?


 だがそんな俺のかわいい考えは、次に送られてきた写真で一瞬にして否定される。


 白鈴の自撮り写真だった。

 それもただの自撮り写真ではない。

 露わになった胸を手のひらで隠している、いわゆる手ブラというやつだった。お腹とかおへそも丸見えになっている。

 背景には確かに脱衣所が映されているが、もはやそれは文字通り背景でしかない。

 その手前に映る、カメラ目線で微笑む彼女しか目に入ってこないのだ。


 と、俺が画面に釘付けになっていると新たなメッセージが届く。


『そんなに見つめないでくださいよ〜』

 

 くっ!

 憎たらしい文章であるが、あながち間違いではないので質が悪い。俺の行動が見透かされているような言い方だ。

 俺は『画像を保存』に差し掛かった指を理性で制して、震えながら文字を打つ。


『こんなよで甲府んするような俺じゃないぞ』


 慌てて誤字に塗れた返信を送ると、数秒後に返信が来る。

 記号が加わって、いつにも増してあざとい返信が。


『見つめてたことは否定しないんですね♡』


 こいつ! どうしてこうも鋭いんだ!

 

 このまま白鈴の相手をしていてもらちが明かないので、俺は画面を切って服を脱ぐ。

 第一、今は営業時間がギリギリなのだ。こんなことで時間を潰している暇はない。


 と、必死に撤退を正当化しながら浴場へ続くすりガラスの戸を開ける。


 中に入ると昨日と同じく、堂々たる風格を見せる富士山の壁画に出迎えられる。

 唯一昨日と異なるのは、客の影が誰一人として見当たらないこと。


 まさに貸し切り、贅沢な気分だ。


 悠々と蛇口の前に腰をかけて、シャワーを浴び始める。

 普段ならさっさと洗ってすぐに去りたい俺だが、こうも静かで平穏な空間だと落ち着いて日々の疲れを流せる。

 浴場に聞こえるのは俺の使うシャワーの音だけで、それがなんとも心地いい。


 だけど、ふと戸の開く音がした。

 物音につられて入り口の方へ視線を向けるが、生憎そこには誰もいないし戸も閉まっていた。


 おかしいな? と思いつつ体を洗っていると再び音が聞こえてくる。今度は戸の音ではなく、桶が置かれる、カポーンという安らぎ溢れるものだった。

 先ほど同様に、浴場を見渡しても誰もいない。


 だがその答えは意外にも簡単なものだった。


「……ああ、そゆことね」


 浴槽から立ち昇る湯気に目をやると、その答えが一瞬にしてわかった。簡単なこと過ぎて笑ってしまいそうになる。


 男湯と女湯を隔てる壁が、天井まで届いていないのだ。


 壁と天井との間にはまあまあ大きな間があって、完全に男湯と女湯に分けられているわけではない。

 だからおそらく、これらの音は向こう側でシャワーを浴びる白鈴のものだろう。


 …………。


 別に想像したわけではないが、頭の片隅でシャワーを浴びる白鈴が思い浮かんでしまう。

 先ほど見た、色っぽい彼女の姿が脳裏に焼き付いていたからだ。


 俺はそんな邪念を絶つために、早々にシャワーを浴び終えて湯船に浸かる。

 少しずつ湯に体を沈めていくと、体に溜まった疲れが湯気と一緒に滲み出ていく感覚に陥る。

 冬場の冷寒が支配する空気の中、こうやって暖かい湯に身を沈めるのはやはり気持ちいいものだ。


「はぁ……」


 眼下に広がる極楽の中にいると、嫌なこともどうでも良くなる気がする。

 これから再開される大学も、もうすぐ本格化していく就職活動も。


 そして、もう昔のように感じられる失恋も。


 湯船の心地よさは俺の気を紛らわせてくれて、普段なら考えないようにしていることも、ふと頭に浮かんできた。


 失恋から約一週間が経って、俺の心境はだいぶ落ち着いてきたつもりだ。

 最初の二日、三日は何かあるたびに胸が痛くなったり泣きそうになったが、時間という概念のおかげでそんな感覚は訪れにくくなった。


 それに何より、白鈴の励ましが大きかった。

 俺の失恋を聞いてから彼女は、以前よりも頻繁に会ってくれるようになった。それはきっと、落ち込んだ人間を一人にしてはいけないと、彼女が気を遣ってくれたのだろう。

 結果的に俺は失恋から立ち直りつつある。これも白鈴のおかげなのかもしれない。


 と、柄にもなくしみじみとしたことを思っていると、ふと声が聞こえてきた。


「せんぱい〜、聞こえてますか〜?」

「聞こえてるぞ〜」


 女湯の方から、いつもの白鈴の声が聞こえる。

 その問いに大きめな声で応答すると、浴場に俺の声が響いていく。


「せんぱい、気持ちいいですね〜。来た甲斐がありました!」


 どうやら白鈴も湯船に浸かっているようだ。


「そうだな〜。極楽だ〜」


 更に湯船に埋まりながら、同意の言葉を送る。

 でも帰ってきた白鈴の言葉は、なんともおかしなものだった。


「裸でせんぱいと話すのって、なんだか興奮しちゃいます」

「そうか」


 「俺もだ」という言葉を押さえ込んで、相槌じみたことを返す。


「でも本当は壁越しじゃなくて、くっつきながら入りたかったんですけどね!」


 顔こそ見えないが、たぶん白鈴はいつも通りのあざとい笑顔を浮かべているだろう。

 だから言葉を返す俺も、いつも通りを心がけて答える。


「そんなことしなくたって、どうせ夜にくっついて来るんだろ?」

「夜だけじゃ足りないんですよ〜」


 甘えるような声が響いていく。誰もいないとは言え、そういった色っぽい声を出されると恥ずかしいものがある。


 だけどそんな感想を抱くと、思いもしなかった沈黙が訪れる。

 その間は数十秒続いた。

 まるで先ほどまで、会話など無かったかのような空気が立ち込める。

 そして、

 

「ねえ、せんぱい。せんぱいは、新しい彼女さんとか欲しいですか?」


 

 突然、静まり返った浴場に言葉が投げかけられる。

 それは先ほどの声とはどこか雰囲気の異なる、あざとさのない台詞だった。


「……どうしてそんなことを?」

「もし欲しいって言うなら、私がなってあげようかなと」


 その言葉に思わず胸が浮つく感覚を覚える。

 あまりにも急に、そんなことを言われたからだ。


「……確かに恋人は欲しい。だけど、別に無理して作るものでもないからさ」

「…………」


 俺の言葉に対する返事はなかった。

 その代わりに、湯船から勢いよく飛び出すような音が聞こえてくる。


 どうしたのだろうか。随分と早く上がるものである。


 そんな白鈴を気にしながら、俺も湯船に沈み込んだ体を起こして、湯気の昇る浴槽を後にする。外で彼女を待たせるのも、なんとなく申し訳ないからだ。


 体を拭いて脱衣所に戻る。

 大した時間は浸かっていなかったが、脱衣所に入るとその温度差で、いつの間にか体が火照っていたことに気がつく。

 意外とこういう自身の変化には、あまり気がつかないものである。


 ――ラインッ♪


 着替えていると、脱衣所に入ってきた時のように通知がなる。

 まあどうせ、白鈴だろう。

 だが、上がって早々にどんな用だ?

 まさか、また破廉恥な自撮りを送ってきたのか!?


 でもそんな俺の淡い期待はたった一文で否定されたのち、軽く嘲笑を受ける。


『期待しましたか? えちえちなのはお預けですよ?」


「…………」


 まあ、こんなことだろうと思った。はなから期待などしていなかった。


 俺は画面を切ろうと電源ボタンに指をかける。

 だけど、それは寸前で止まった。

 別にトーク履歴に映る白鈴の手ブラが見たかったからでも、白鈴とまだ話したかったからでもない。


『白鈴雛乃がメッセージの送信を取り消しました』


 トーク履歴に残るその表記が、妙に俺の目に留まったからだ。



 ○○○



 私のことが嫌いになりそうだ。


『突然ですが私、せんぱいのことが好きです』


 彼がお風呂から上がって戻ってきたら、一体どんな反応をするのだろうか。

 男湯の戸が開いた音を聞いて、そんなことを思いながら送信した。

 

 私は臆病な性格である。

 こんな文字だけで思いを伝えるのは失礼なやり方だと分かっていたけど、そうでもしないと言える気がしなかった。


 私は心弱い性格である。

 断られたらどうしよう、関係がおかしくなったらどうしよう、距離が遠くなったらどうしよう。

 そんな不安が渦を巻いて、仕方なかったからつい聞いた。


「せんぱいは新しい彼女さんとか欲しいですか?」


 そしてその回答は「欲しい」だった。

 だけど、それに続いた言葉で私は不安感を抱いた。


「無理して作るものじゃない」


 もしも彼が私に好意を寄せていたら、こんなこと言うはずがない。一言でオーケーするはずなのだ。


 だから私は不安になった。

 不安になって湯船を出た。

 大して体も拭かずに、水を滴らせながらスマホを手に取って、先ほどのメッセージを取り消した。


 こんな勇気のない自分が、嫌いになりそうで仕方ない。

 その癖して彼と付き合いたいと思っている私に、自分自身で嫌悪感を抱く。


 早く、一秒でも早くこの想いを伝えるべきなのに、たった一言がどうしても出ない。

 怖くて悔しくて仕方がない。

 待っていたら取られるのは分かってる。


 だけどどうしても、たった一言を伝えられない。

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