#15 それだけはダメなんだ
「久しぶり、だね……」
一生懸命に笑顔を作ろうとする彼女の名は今井綾沙。
数日前に別れを告げられた、俺の元カノだった。
「あ、ああ。久しぶり」
実際には久しぶりではないが、感覚的には確かに久しい気がした。
数日会っていなかっただけなのに、数年ぶりくらいに感じる。それはきっと、別れる以前は毎日のように会っていた過去があるからだろう。
僅かに沈黙が流れるが、その間を嫌ったように綾沙は口を開く。
「……えっと、その、あけましておめでとう。今年もよろしくね……」
「……あけましておめでとう」
どう答えればいいか分からず、しどろもどろな声になる。
だけど、たった一つだけの判断はついた。
「今年もよろしく」のセリフは、今の俺たちに間が悪すぎると。
「元気にしてた? その、私の事情で連絡が取れなくて……」
綾沙は聴き慣れた様子で聞いてくるのに、どうしても白々しく聞こえてしまう。
だが彼女に感情的になる必要はない。他人に対して、いちいち腹を立てていてはキリがないのだ。
「まあ、なんとかしてたよ」
素っ気なくその一言を返す。
彼女に対して、こんなに心のこもっていない言葉を発したのは初めてかもしれない。
だけど不思議と、悲しくはならなかった。
別れを告げるメールを盲目的に否定して、必死に雪の降り積もる聖夜を駆け抜けて、その末に辿り着いた場所で綾沙は他の男と抱き合っていた。
その当時の情景と心情が、どうにも頭から離れなかった。
だからもう、今井綾沙は他人であると思うようにした。
綾沙を元カノという言葉で言い表すのはなんとも未練たらしい。
彼女は全くの他人だ。
好きになって告白して、色んな時を共にして、互いに想いあった過去があるだけの、ただの他人。
確かに過去には恋人同士の関係だった。俺も彼女のことが好きだった。楽しくてたまらない日々だった。
だけど、それは過去の、戻ることのない昔のことで、今は全く違う。
恋人だった彼女は、もはや他人になったのだ。
「お買い物終わり? そっちの子と……」
ぎこちない話題を振りながら、綾沙は俺の背後に佇む白鈴へ目をやる。
白鈴は何も言わずにただじっとしているだけだ。
「そんなところ」
「…………そっか。たーくん、カニ好きだもんね」
「……そうだな」
相槌のような返事をして、俺は帰路に目をやる。
正直もう帰りたかったのだが、その前にどうしても言いたい言葉があって、俺の足は踏み出せない。
だがこうやって立ち止まっていれば沈黙が生まれるだけだ。
だから、思い切ってその言葉を口走る。
「……もうたーくんって呼ばないでくれ。そんな仲じゃないからさ」
「えっ? ご、ごめんね。もう、呼ばないから……」
申し訳なさそうに謝る綾沙だが、そんな必要はないと思う。どうせこれから先、名前を呼び合うような場面は二度と訪れないだろうから。
「じゃあ」
昔は「じゃあまたね」と言った挨拶も、随分と短くなる。
別に短縮化して言ったわけではない。「また」の機会が訪れないことを願って略したのだ。
その一言と共に俺は踵を返して歩き出す。
だけど、
「たーくん、待って!」
慌てた様子の声と共に、俺の左手が掴まれた。
俺は驚いた。
別にたーくんと呼ばれたからでも、綾沙が止めてきたからでもない。
彼女の手が、異様なほどに冷たかったのだ。
でもそんな俺に構うことなく、綾沙は言いづらそうな様子で尋ねてきた。
「……こんど、いつ会える?」
「え?」
想いもしない言葉だった。
けど俺がその返事を口にする前に、傍から横槍が入る。
側で傍観していた白鈴の横槍が。
「本気で言ってるんですか? 冗談でも笑えませんよ」
その声音は俺のよく知る白鈴とはどこか雰囲気の違うものだった。
侮辱と軽蔑の入り混じるそれは、ナイフの刃先のように鋭さを帯びた印象すら与える。
白鈴と綾沙は高校時代から何度か面識があるはずだった。
でも別に話している姿は見たことがない。
だからこの言葉の重さは、普通のものよりも断然ドスの効いたものに聞こえた。
そんな言葉に当てられてか、さっきまで引き止めていた綾沙も自然と手を離して、数歩後ずさりながら身を翻した。
「じゃあまたね」と、添えるような一言を残しながら。
「……白鈴?」
すっかり綾沙の姿が彼方に消えると、俺は恐る恐る白鈴に話しかける。
「すみません、つい……。でもせんぱいがイラついてて、どうしても言いたくて……」
「いや、イラついてるつもりはなかったんだけどな」
イラついていたというよりは、距離感が掴めなかったのだ。
綾沙は仮にも俺を振った身である。そんな彼女に対しての対応の仕方が、よく分からなかったというのが本音だ。
「ごめんなさい、余計なこと言っちゃいましたね」
「そんな、というかその……」
申し訳なさそうに謝罪の言葉を並べる白鈴に、俺の方が申し訳なくなる。彼女は俺を思って助けようとしてくれたのだから。
「ありがとな、白鈴。居てくれて良かったよ」
恥ずかしいセリフをなんとか伝える。
すると白鈴も恥ずかしいのか、ほのかに頬を赤らめる。
「いえ、そんな、私はただ……」
「ありがとうって言われたんだから、どういたしましてだろ?」
「ど、どういたしまして、です……」
なよなよしい白鈴を見ていると、なんだか調子が狂う気がしてくる。いつものあざとくてハッチャケてる彼女は、どこかに行ってしまったようだ。
しょんぼりと落ち込んだ様子の彼女からはなんとなく、哀愁が漂う気がした。
「行くぞ、白鈴」
短くそう言って白鈴の前に手を差し伸べる。
今度のそれは荷物を持ってあげる意味ではなく、手を取るつもりのものだった。
だけど、白鈴はその手を握り返すことはしなかった。
その変わりに、目一杯の力で腕に抱きついてきた。
「えへへ。演技ですよ、せんぱい」
…………。
心配した俺が馬鹿らしい。
白鈴は腕に頬を押し付けながら、口元を緩ませた表情を見せる。
「ならやっぱり離れてくれ」
「えー、ダメです。帰るまでずっとこのままです!」
「……駅までにしてくれよな」
大袈裟にくっ付いて離れない白鈴と共に、俺は駅へと続く道に歩みを進め出す。
歩きづらいし弁当が持ちづらい。なにより周囲の視線が異様に集まって仕方がない。
……だけど、まあいいだろう。
隣で幸せそうに寄り添う白鈴を見ると、そんな感想たちは一瞬にして吹き飛んでいった。
○○○
「ただいまです!」
「ただいまー」
誰もいないのは分かっていても、家に帰ると自然に「ただいま」を口ずさんでしまう。
それは白鈴も同じだったようで、先ほどのしゅんとした様子が嘘のように、元気よく挨拶をしている。
というか、彼女が「ただいま」を言うことに慣れつつある俺はどこかおかしい気がする。
そんな感想を抱きつつ、小さな冷蔵庫にタラバガニを押し込んでいく。今夜の出番になるまで、こいつらには眠っていてもらおう。
「せんぱい、ご飯食べましょうよ〜」
タラバガニを封印した俺の背後から、わざとらしくも色っぽい声で白鈴が話しかけてくる。
せっかちな奴め。
「もう行くけど、先に食べててもいいぞ」
「ダメです、せんぱいと一緒に食べたいです」
可愛らしい台詞を口にする白鈴に対し、俺は無反応を装って腰を下ろす。
慣れたつもりだったが、不意にこんなことを言われるとやはり口が聞けなくなる。いつまで経っても、彼女の思わせぶりな言葉には肝を冷やされるのだ。
「いただきますです!」
「いただきます」
おかしな口調で合掌をする白鈴と、至って普通に合掌をする俺で箸を伸ばし始める。
お互いにまず取ったのは、その大きな唐揚げである。俺は毎年食べているのでそこまで驚きはないが、白鈴は圧倒された様子を見せている。
「すごく大きいですね……」
「食べきれそうか?」
「……頑張りたいところです」
そんな会話を挟みつつ、二人で箸を進め始める。
唐揚げは例年通り美味しくて、ついつい唐揚げだけを食べ過ぎて白米が疎かになってしまう。
この弁当は唐揚げが旨すぎるので、白米の量をもう少し減らすべきだと毎年思う。
そう去年も、綾沙とこの弁当を食べて同じ感想を抱いていたな。
……綾沙といえば。
「そういえば白鈴。昨日の夜、俺の留守中に綾沙が来たとか言ってなかったか?」
大きな唐揚げと格闘する白鈴に、俺は唐突な言葉を投げかける。
でもそんな俺に対して、彼女は唐揚げを箸に持ったままあっけらかんとした様子を見せて答える。
「え? 言ってませんよ?」
「ほんとか? 夢かなんかかな……」
「まだ未練があるんじゃないんですか?」
その白鈴のふとした一言が、妙に俺の核心を突いているような気がした。
確かに、未練がないと言えばそれは嘘になる。だからこうやって、彼女が戻ってくる夢を無意識に見ていたのではないか。
だがそう思っても、夢にしてはあまりにも鮮明にそのことを覚えていた。だから俺は白鈴に再び尋ねる。
「白鈴、でもやっぱり」
「せんぱい〜。そんなことよりも、私の唐揚げ一つ食べてください。あーんしてあげますから、ね?」
だけどそんな俺の質問を、白鈴は遮るかのように言葉でかき消した。
「いや、大きすぎるから、あーんしたら顎が外れるぞこれ」
「じゃあこうしちゃいます」
白鈴は小さな一口で唐揚げに噛みつく。でもそんなので唐揚げが食べ切れるはずはなく、一齧りされたものが残る。
そして、
「はい、あーん」
「いやいや、おかしいだろ」
どうしてそうなる、と言葉を続けようとするが、その一言は出ることなく喉に戻っていく。
代わりに、温かい何かが口に入ってくる。
「せんぱい、あーんだよ?」
いたずらな笑みを浮かべる白鈴が、俺の表情を覗き込んでくる。
口の中に、味の分からない唐揚げが入ってきたのだった。
○○○
女の勘という都市伝説のような能力が実在するのか分からないが、商店街で舞い降りた予感は、おそらくそれに近い感覚だった。
今井綾沙との遭遇は、偶然ではなく彼女の意思である。
そんな身も蓋もない直感を私は信じた。
だからその直感に従って、私は二人の間に横槍を入れた。
そして帰り道で私は、その予感を確信へと変えた。
よくよく考えれば気づくことがいくつもあって、その事情こそ分からないが、行動の意味は正確に理解した。
だけどそれだとダメなんだ。絶対にダメなんだ。
ズルだとしても、それだけは止めなくちゃいけないんだ。
卑怯で陰湿で、性格が悪いと言われようとも、どんなことをしてでも、二人の距離を縮めてはいけないんだ。
そうでもしないと、
せんぱいが、また遠くへ行ってしまうから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます