#13 今井綾沙が気になって


 「うちの兄のこと、どう思ってます? 恋愛的な意味で」


 水が滴る音に混じって、こちらを伺うような声音がした。

 

 刹那、私の脳裏に数々の記憶が過ぎる。


 寝てるせんぱいの寝顔にキスしようとしたこと、ベッドの中に顔をうずめてモフモフしてたこと、今井さんが来たことを黙っていたこと。


 いずれかの汚行を目撃されたのか!?


 ……でも冷静に考えれば朝に澄ちゃんはいなかったし、ベッドの悪行についてはカメラでも付けられていない限り大丈夫である。

 ただ、今井さんが来たことを伝えなかったのは、証拠こそないけれど罪悪感は残っていた。

 いや、伝えなかった罪悪感ではない。密かにせんぱいを疑う罪悪感だった。


「え、えっ、えと、その……」


 頭は回っても言葉が出てこない。

 さっきまでは意気揚々と質問攻めにしていた私だが、たったの一言で立場がガラリと変わる。

 狼狽える私を見てか、澄ちゃんはニヤニヤと畳みかけてくる。


「どうしました? そんなに答えづらいことですか?」


 ぐぬぬ……いい気になりおって……。

 でもその言葉は明らかに図星だった。何も言い返せない。


「どうして、そんなこと聞くの……?」


 湯船に体を更に沈めながら、苦し紛れに質問を返す。そんな私に対して、澄ちゃんはさも当然のようにスラスラと言葉を綴る。


「いや分かりますよ。あざとい仕草はもちろんですけど、お兄ちゃんの横顔とか、後ろ姿とかをじーっと見てたり」


 「そんなことない!」と言いたいところだが、否定できない私が確かにいた。だって、考え込んでる顔とか前を歩いてる姿とか、私の視線が集まる要素ばかりなのだ。こんなの見ないほうがおかしい。


「で、どうなんですか? もしかして、好きだったりします?」


 こ、この子娘め! 分かりきってることを何度も……!


 だけど、これ以上隠しても意味はないだろう。


「……好き。高校からずっと、正真正銘の初恋……」


 言ってしまった。由紀ちゃんには何度か言ったことがあったけど、こうして問いただされる形で告白したのは初めてだった。


「へぇ……。そうなんですか」


 含みのある笑顔ごこちらを嘲笑してくる。それがどうにも恥ずかしくて、私は耐えられず言葉を発する。


「……言わないでね」

「えー、どうしよっかなぁ? もう一つ質問に答えてくれたら言わないでおきますよ!」


 なんだかはしゃいだ様子を見せる彼女だが、言っていることはなんとも鬼畜である。せっかく頑張って言ったのに、どうせまたせんぱい絡みの質問をしてくるに違いない。

 

 だがそんな私の予想は、嬉しくも悲しくも当たってしまった。


「どこが良かったんですか? 具体的に」

「…………」


 私はまるで答えられない。

 別に、具体的な理由がなかったからではない。むしろその逆である。


 良すぎるところが多すぎるのだ。

 

 寝顔が可愛かったり焦った表情が面白かったり、落ち込んでるのに頑張って笑って見せたり。

 とにかく多過ぎてキリがないけど、強いて言えばこれだろう。


「……高校時代の合コン」

「わぁお。かわいいですね」


 少し馬鹿にされた気がしたが、かわいいというのは私も同意だ。

 彼女は続けて質問を重ねる。


「合コンで何があったんですか?」

「……一人で居たら……。いや、もう言わない! 質問ここまで!」


 ギリギリのところで思い出話の吐露を未然にすごす。危なかった。あの頃の話は色々と恥ずかしくて、たとえ澄ちゃんの質問でも、安易に答えることはできなかった。


 きっぱりと打ち切る私に、彼女は脱力するように湯船に沈んでいく。


「なんだぁー、聞きたかったのになぁー」


 わざとらしい呟きをしているが、私の気は変わらない。それよりも、


「そんなことより、どうやったら胸を大きくできるの?」


 思わぬことを聞かれて忘れていたが、元はと言えば私からの質問だったのだ。さあ、忌むべき豊満な女子高生よ、そのタネを明かしてもらおうか!


「え? 簡単ですよ、胸を揉まれればいいんです」

「……はい?」


 思わぬ台詞に間抜けな声を上げてしまう。

 でも彼女はそんな私を気にする様子もなく、するりとこちらへ近づいてくる。

 そして、


「いやだからこうやって、大きくなーれ、大きくなーれって」

「まっ、待って! 澄ちゃんやめて!」


 いきなり私の胸に襲いかかってきた。

 揉んでやろうと手を探る彼女と、小さな胸を揉まれまいと必死になって抵抗する私。

 二人しかいない浴場に、甲高い声が響きわたる。湯船は大きく波を立てて、落ち着きのない雰囲気を作る。


 先ほどまで、彼への気持ちを言うか迷っていた私だけど、過ぎてしまえば今は昔、何事もなかったかのように普通の心情に戻っていた。


 案外伝えにくいことも、言ってしまえばどうってことないのかもしれない。

 なんて、自分とは遥かに矛盾したことを考えてみたりする。



 ○○○



 「せんぱい、電気消しますねー」

 「さんきゅー」


 部屋の照明が落とされて、カーテンから差し込む月明かりだけが微かに部屋を照らす。

 修学旅行のような雰囲気で消灯した只今の時刻は午後11時。澄香が明日の電車で寝ないように、こうして早めの就寝にしていた。


 俺はベッドの下に配置された敷布団。白鈴と澄香は仲良くシングルのベッドを使っていた。


 敷布団の寝心地ははっきり言って良くなかったが、昨晩よりもずっと快適である。昨晩はずっと白鈴に抱きしめられいたので、全く眠れなかったのだ。

 背中に胸が押し付けられて控えめな弾力を感じたり、気持ちよさそうな吐息に耳を奪われたりと、あらゆる彼女の要素が俺を寝かせようとしなかった。

 

 だが今晩はこうして一人、のうのうと眠りにつくことができる。

 にしても狭い布団だなぁ。やっぱり一番安いやつを買うべきじゃなかったな、と貧乏性の俺を後悔しつつ…………。






「せんぱい、起きてください」


 遠くで呼ばれる声がして、もう朝なのかと目を細く開ける。だけど、目を開けると月明かりが差したままだし、声の主はとても近くにいた。


 そう、白鈴が俺の布団に入っていた。

 横向きに寝そべる彼女と目が合う。


「まだ朝じゃないんだが」


 まだはっきりとしない意識の中でそんなことを言う。すると白鈴は静寂を壊さないほどの囁きで「おはようとは言ってません」と、悪戯な笑みを浮かべた。

 そんなことよりも眠たいので、俺は再び目を瞑る。


 だが俺の意思とは裏腹に、意識は一瞬で明確になっていく。

 というのも、


「せんぱい、どうですか?」


 俺のだらんと垂れた右手が、白鈴の手によってあるところへ押し当てられていた。

 暗がりで全く見えないが確かに分かる。これは白鈴の胸だ。


「!?」


 声にならない驚きと共に慌てて手を引っ込める。だが白鈴は手を離さない。


「もっと触ってくれていいんですよ?」


 顔を近づけてそうっと呟きかけてくる。


「ど、どうしてまた!?」

「せんぱいの寝顔が可愛いかったので、つい入っちゃいました」


 俺は反射的にベッドの方、つまり澄香の方に目をやる。だがそちらから聞こえてくるのは「すぴー」という間抜けな寝息だけだった。

 よかった、あいつは寝ているようだった。


「せんぱい、もっと触ってぇ」


 甘くとろけるような口調でそう言ってくる白鈴に、俺は手を振り解いて背を向ける。

 このままでは寝れないどころの話ではなく、俺の煩悩を抑え切れるか怪しかったからだ。


「今夜は濃厚な夜を過ごしましょうよ〜」

「…………」


 何も答えられない。別に、そういったことを考えたわけではないが。


 でもその直後、予期もしない沈黙が流れた。

 あまりに急なことで冷や汗が出ていく。


 その沈黙も裂いたのはこの状況を作り出した張本人、白鈴の一言だった。


「今日、元カノさんが家に来ました」

「……は?」


 すっかりと真面目な声音に切り替わった白鈴に、俺は雰囲気に見合わない返事を返してしまう。

 だがそれすらも想定内のように白鈴は言葉を続ける。


「せんぱいがいるか聞かれて、いないって答えたら残念そうに帰って行きました」


 全くの初耳だった。綾沙が家に尋ねてきたのも、残念そうに帰って行ったのも、嘘だと疑ってしまうほどに信じられないことだった。

 そして何より、白鈴が何故黙っていたのかが最も気になった。


「……どうして今頃そんなことを?」


 直球の質問だが、俺の聞きたいことはそれだけだった。

 でも白鈴は答えにならない言葉を返す。


「せんぱいは、あの人とは付き合ってもいないし、関係もないんですよね?」

「……ああ」


 普段は聞かない真面目な声音に気圧されて、俺は正しいながらも生半可な答えを返す。すると白鈴の声音がいつも通りのものに変わっていく。


「そうですよね、すみません」


 恥じらうような雰囲気を漂わせる彼女に、今度は俺の方が質問をする。


「どうしてそんなことを聞くんだ?」


「……おやすみなさい、せんぱい」


 白鈴はその問いに応えることなく、おやすみを口走る。

 彼女はするりと立ち上がって元のベッドに戻っていった。

 まるで何事もなかったかのように月明かりが俺の目元を照らす。


 本来なら白鈴が居なくなって寝やすいはずであるだろう。

 だけど今夜は、彼女の言動が気になって到底眠れそうになかった。

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