#9 一つ同じベッドの上で
「ただいまです!」
「いや、お邪魔しますだろ」
玄関でくだらないことを言う白鈴に、これまたくだらないツッコミを入れる。
無事新年が明けた午前一時。
俺はあの地獄の寄せ鍋のような人混みから抜け出して、なんとか帰宅していた。
結局あの後、俺たちは適当にお賽銭を供えて、参礼をしてから帰ることにした。本当はもっとゆっくりと滞在したかったのだが仕方がない。というのも、やはり人が多過ぎてまともに歩くことができなかったのだ。
「はあ……。新年早々疲れた気がする……」
靴を脱ぎながらそんなことを呟くと、白鈴は振り返ってとびきりの笑顔を見せる。
「私は楽しかったですよ! 来年もまた行きましょう!」
そんな途方のないことを口にする白鈴は、俺の見慣れた様子である。
こうして彼女を見ていると、やはり先ほどの大人びた様子は演技だったと確信が持てる。
初詣で、演技だったというネタバレをした後の彼女は、すっかり元の調子に戻っていた。
恒例の二礼二拍手一礼をしたあとは「私はせんぱいと一緒に居れるようにお願いしました!」なんて言ってくるし、帰り道では「寒いので抱きついていいですか?」と可愛らしい仕草で聞いてくる始末。
そして現在、彼女は俺の部屋にまで来ていた。
「せんぱい、襲わないでくださいね?」
「俺が新年から欲情する輩に見えるか?」
「見えないけど、私が魅力的過ぎるので!」
「清々しいまでの杞憂だな」
白鈴が部屋に行きたいと言ってきたのは初詣の帰り道。
このままだと電車で寝ちゃうとか元日を一人で過ごすのは寂しいとかの理由をあれこれと付けて、合法的に俺の部屋に入ってきたのである。
もちろん断ろうとしたのだが、今回の白鈴は真面目に悩んでいたように見えて、特に断る理由もないので部屋に上げてしまった次第である。
別に、白鈴と過ごす元日もいいな、なんて思ったわけではない。これは俺の良心である。
そんな風に自分の甘い判断を正当化していると、白鈴が媚びるように聞いてくる。
「せんぱい、何か食べたいです。お腹空きましたー」
「仕方ないな、ピザがあるからそれ食べるか」
俺は白鈴に背を向けて冷蔵庫を覗き込む。後ろから「わーい」という馬鹿っぽい歓声が聞こえてくるので、賞味期限が切れかけてることは内緒にしておこう。
小さな冷蔵庫にギリギリ押し込められたピザを取り出して、電子レンジに投入する。
「それにしても、結構片付いた部屋ですね。せんぱいのことだから散らかってるかと」
「さっき掃除したばっかりだからな。それに、家具が少ないからすっきりして見えるだけだと思う」
たまたま大掃除と銘打って部屋を片付けたことが今になって生きる。汚い部屋を白鈴に見られなくてよかった。
家具が少ないのもかえって良い。
俺の部屋の構成は必要最低限と言えるほどに質素なものだった。
テレビ、ローテーブル、座布団、ベッド。
1Kの間取りに配置された家具はこれだけで、すっきりと片付いた印象を与えてくれる。
「せっかく私が掃除してあげようと思ったのに。なんだか損した気分です」
そんなことを呟く白鈴に、熱々になったピザを運ぶ。
「ほれ、ピザ。半分ずつな」
「ありがとうございます! 早速いただきます!」
白鈴はピザの一切れを手に取り口に運ぶ。あついあついと口にしながらもそれを頬張る彼女の姿は、なんとなく無邪気で可愛らしい。
「なに見つめてるんですか? もしかして、顔に何かついてます?」
「あ、いや、なんでもない」
唐突に聞かれて俺は誤魔化すようにピザに手を伸ばす。
危ない危ない。あまりにも美味しそうに食べるので見入ってしまった。
勘違いしないで欲しいが、白鈴が可愛かったから見惚れていたわけではない。勘違いしないで欲しいが。
俺たちはピザを囲んでどんどんピザを食べていく。
小さなピザだったのでそれはすぐに平らげられた。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした」
ピザの半分と言っても結構な量があったように思える。夜食にしては重すぎたかな、なんて感想が抱かれる。
それは彼女も同じだったようで、満足したように腕を突っ伏して項垂れた様子だ。
「おいしかったけど、眠たくなってきました」
「俺も満腹感で眠くなってきた」
受験勉強で何度か味わったこの感覚が襲いかかってくる。勉強の休憩中に夜食をつい多く食べてしまうと、満腹感で睡魔がやってきていつの間にか寝落ちしてしまうあの現象である。
「はあ……眠い」
俺は床に背中をつけて寝転がる。食べてすぐ寝ると牛になるらしいが、実際のところは体を休めた方がいいと思うので、安心して牛になるとしよう。
エアコンでぽかぽかになった部屋の空気を感じて、大の字に腕を広げると自然と目蓋が落ちてくる。
うとうとする間もなく、眠気が俺を包み込む。
目蓋が完全に閉じたとき、俺はもう眠りに落ちていた。
○○○
背中がやけに痛くて目が覚めた。
うっすらとその視界が鮮明になっていく。
重い体をなんとか動かして寝返りを打つと、横には我が家の硬いフローリングが広がっている。
こんなところで寝ていたからか、体のあちこちが痛みを感じているようだった。
「いてぇ……」
内心の感想を漏らしながら、悲鳴を上げる体を無理やり起こす。これが欲望に負けておかしなところで眠った愚か者の、無残な末路である。
時計に目をやると時間を示す針は午前の二時を指していた。エアコンも切れていて、部屋にはうっすらと寒気が漂っている。一時間もこの悪状況で眠っていたと考えると恐ろしい。
白鈴も酷い寝方をしているのかとそちらを見ると、彼女はテーブルに突っ伏して吐息を立てていた。学校の授業とかでよく見るような寝方である。
この寝方は俺の経験上、起きた時に腰へ大ダメージを与えるやばいやつだ。フェイタスでも回復できるか怪しいところな程である。
「白鈴、起きろー」
肩をさすってみるが彼女が起きる気配はない。変わらず小さな吐息が聞こえる。
腕の間から見える気持ちよさそうな彼女の表情が、どこか子どもっぽくて可愛らしく映る。
そんな彼女を見て、わざわざ叩き起こす気はなくなってしまった。
仕方ないな、これは。
俺は白鈴の腰と足にそっと手を回す。起こさないように注意して彼女を持ち、つま先にぐっと力を入れて持ち上げる。
落とさないように胸の位置まで彼女を持ってくるが、重さはあまり感じない。
いわゆるお姫様抱っこってやつだ。
白鈴の眠った表情が間近に映って、俺は少し照れてしまう。
すやすやと眠った彼女を見ると、いつものあざとくて思わせぶりな言動をする後輩には到底見えない。肌が綺麗だなとかまつ毛が長いな、なんて感想がふと湧いてくる。
こんな彼女をもっと見ていたいけど、いつまでも持ち上げたままにするわけにもいかず、ベッドの上に運びこむ。
優しく白鈴を下ろすと、彼女は力なくベッドに転がる。手がだらんと動くところはまるで子猫のように可愛らしい。
でもこれでベッドは使えなくなってしまったので、俺はこの硬いフローリングと夜を共にするしかない。
あまり気は進まないが、仕方ないだろう。敷布団すら備わっていない俺の部屋が悪いのだ。
だけどそのとき踵を返すと、俺の手がふいに掴まれた。
反射的に振り返ると、白鈴の目蓋が微かに開いている。
そして小さく、呟くように口が動く。
「せんぱい、いいですよ」
その言葉の意味がいまいち分からなかった俺は、突然のことで何も言えなかった。
すると白鈴は、掴んだ手を引っ張ってくる。
「お、おい」
「来ていいですよ」
引っ張られた俺は自然とベッドに腰を下ろす。
「床で寝る気でしたよね? ダメですよ、背中が痛くなっちゃいます」
手を掴んだまま白鈴は言葉を続ける。
「だから、一緒に寝ましょ?」
戸惑う俺に構わず、白鈴はその手を勢いよく引いた。当然俺はベッドに引きずり込まれる。
シングルのベッドに男女二人が入ると、いつも悠々と寛いでいたそこが、途端に狭く感じる。隣に白鈴が寝転がっている景色は普段の生活で想像もしなかったものだ。
くだらない感想を抱きながらも、俺は戸惑いの声をあげる。
「いや、白鈴、どうして」
「せんぱいだけ床はかわいそうなので、一緒にベッドで寝ましょう」
いつもなら軽く軽んじて扱う言葉も、この状況では到底流せない。俺は黙することしかできなかった。
だがその時、少しの考えが頭に過ぎった。
一緒のベッドで寝ても体が触れなければ、ただ寝ることと変わらないのではないかと。
そうだ。同じベッドの上で、同じ布団をかけて、同じように寝る。このことの何がいけないと言うのだ。
必死に状況を正当化して、乱れた心を落ち着かせる。
「じゃあせんぱい、電気消しますね」
「……ああ」
部屋に暗闇が満ちる。暗くて白鈴の顔は見れないと思うが、流石に照れるので逆方向に体を向ける。
でも案外暗いから落ち着くものだ。胸の高鳴りで眠れるか心配だったが、結構平気なものである。
と、思っていたが、
「せんぱい、抱きついていいですか?」
そのセリフに思わず反応する。いや、その後の行動に反応する。
背後から抱きしめられたのだ。
返事などしていない。だけど背中に感じるそれは明らかに抱きしめられたものだった。
背中に柔らかいものが押し当てられて、反射的に背筋が伸びる。続いて俺の胸元に彼女の綺麗な腕が回される。
「し、白鈴!?」
「ぎゅーっ!」
その声と共に白鈴は俺を強く抱きしめる。背中に彼女の頬が当てられてドキリとするが、もう今更なのかもしれない。
「せんぱいがドキドキしてるの聞こえます」
それは適当な言葉ではなかった。実際俺は胸が弾けんばかりに高鳴っていて、ドキドキしている自覚は大いにあったから。
けど、
「そういうのは……」
「彼氏とやれ、ですか?」
「……ああ」
すると息を飲む気配の後、甘い声が耳元で囁いた。
「私にとっての彼氏はせんぱいなので、全く問題ありませんよ」
ダメだ、まずい。完全に白鈴のペースになっている。
これが思わせぶりのあざといセリフだと分かっているのに、その言葉を意識せざるを得ない。
「せんぱいの足、あったかくて気持ちいい……」
白鈴が足を絡めてくる。白鈴の感想とは反対に、俺は彼女の足がひんやりと感じた。気持ちいいというのは同じだが。
「せんぱいは、まだ元カノさんのこと想ってますか? まだ未練がありますか?」
暗く静まり返った部屋の中で、白鈴の囁き声だけが反芻するように聞こえる。まるで想定していなかった質問に、俺は少しの沈黙を作ってから答える。
「うん、想ってるよ。もし別れてなかったら、俺は今日どうやって過ごしてたんだろうって」
もしも彼女の好意があらぬ人に向かって、俺たちの仲を引き裂こうとも、俺ならその悪夢を断ち切ることができると思っていた。
そんな気まぐれのような衝動的な好意よりも、何年も研鑽と想いを積み重ねた関係の方が、強くて揺るがないものだと信じていた。
だけど現実は違った。
知らぬ間に悪夢は訪れて、気づかぬ間に仲を引き裂いていった。
俺はただ、自分なら断ち切れると慢心していただけの愚か者だったのだ。
「じゃあさ、せんぱい」
白鈴は一度息を飲むような間を開けて、俺の耳元で囁いた。
「私が、忘れさせてあげましょうか?」
暗闇に包まれた狭い空間に、答えのない沈黙が流れる。
俺はその言葉に答えなかった。いや、答えられなかった。
どう答えるのが正しいのか、見当もつかなかった。
…………。
「……冗談ですよ、おやすみなさい」
この言葉を最後に、暗がりの中に長い沈黙が再び舞い降りた。
だが、その沈黙を破るものは誰一人としておらず、たちまち沈黙は静寂へと変わった。
○○○
私は全く眠れないでいた。
せんぱいにお姫様抱っこをされたことで興奮して、つい彼をベッドに迎えてしまった。
だけど私の胸は高鳴ることを止めず、鮮明な意識の中で夜を過ごし続けている。
最初にテーブルで眠ったふりをしていたときは、毛布でもかけてくれるのかと思った。実際には大胆にもお姫様抱っこで運んでくれた。
ベッドに誘ったときは、断られるかと思った。実際には一緒のベッドに入ってくれた。
その事実が頭の中でおかしいほど交差して、もはや眠りにつくことができなくなっていたのだ。ベッドに入ってすでに一時間は経ったと思うが、その間は今日あったことを思い出してずっと興奮していた。
唯一の心残りがあるとすれば、目標だった「大好き」を伝えられなかったことくらいである。
「……せんぱい、起きてます?」
彼の体に身を押し付けながら声を溢す。
ただ暗いだけの空間に小さな声が響いていく。だけどその声に対する返事はない。
私の一言がなかったかのように静寂の間が訪れる。
まあこんな時間だし、起きてるはずないよね。
彼の背中に頬をすりすりと擦り付ける。こうやって彼の気づかないところでいたずらをするのは割と好きだ。
第一、私をほっといて眠るせんぱいが悪いんだ。
――けど、こんな今だったら伝えられるかもしれない
「せんぱい、大好きですよ」
告げるはずだった言葉を、今更口にしてみたりする。
○○○
寝言とは思えない程に、はっきりとした一言だった。
夢だとも疑った。聞き間違いの可能性も考えた。
だけど聞こえたのだ。確かに聞こえたのだ。
漠然とした暗闇が支配するこの箱の中で、肩越しに一言が聞こえたのだ。
「せんぱい、大好きですよ」
演技とは思えないような、自然な白鈴の囁き声が。
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