#5 ワンナイトラブ


 「お邪魔します」


 狭い玄関で靴を脱ぎながら、こわばった声で挨拶する。と言っても彼女は一人暮らしなので、返ってくる返事は白鈴だけだった。


「お邪魔されちゃいます!」


 文末にハートでもつきそうなあざとい台詞を吐くと、白鈴は部屋の中に進んでいく。間取りは1ルームと言っていたから、普通の学生の部屋って感じだ。唯一違うのは、壁がコンクリートで防音性が俺の部屋より高いことくらいである。


 それにしても、女子の部屋というのは何故か緊張するものである。小学生から大学生になるまで幾度となく女子の部屋に入ったが、この感覚はいつまで経っても変わらない。

 そんな俺の内心が顔に出ていたのか、白鈴はニヤつきながら俺に聞いてくる。


「せんぱい、もしかして緊張してます? そんなに意識されると困っちゃいますよ!」

「いやいやお前な、俺が何回異性の部屋に入ってきたと思ってんだ。今更緊張するわけないだろ」


 震えた声で強がると、白鈴は面白そうに笑いながら「ですよねー」と返してくる。くそっ、恥ずかしい。


 羞恥心を抱えながらも、俺は荷物を適当なところに置く。と言っても、この部屋はきれいに片付いているので、普通に床に置くだけである。


「それにしても、きれいな部屋だな。もっと散らかってると思ってた」


 ローテーブルは台拭きで拭かれ、ソファーの上も片付いている。ベッドの掛け布団もきちんと畳まれており、女子力というやつの高さを感じる。


 白鈴は冷蔵庫から何かを取り出しながら、背中を向けて答える。


「部屋のきれいさと心のきれいさは比例するんですよー」

「反比例の間違いなんだよなぁ」


 そう呟きながら座布団に座る。

 

「さっきから何してんの?」


 妙に冷蔵庫をいじっている白鈴に対して、疑問の声をぶつける。そんなに長時間開けてると中の物が痛むぞ。


「あー、あのですね、せんぱい。実は……」


 そう言って振り返る彼女の手にはよく見るような缶ビールが握られている。

 ……缶ビール!?


「……あなた、未成年ですよね?」

「体はナイスバディの大人です」

「何言ってんだか」


 白鈴の冷蔵庫を少し覗いてみると、中にはまだ六本ほどビールが残っている。

 たぶん、コンビニなどで買ったであろうそれは、強くも弱くもない普通のビール。

 もちろん未成年飲酒は禁止されているが、大学生になると未成年でも年齢確認をされることがほとんどないので、安全に酒類を買うことができるのだ。ガバガバ過ぎて、いきりたった新大生はこれで調子に乗ることも多い。


 白鈴はまだ飲むのかと思ったが、どうやらそれは違うようだ。


「私、今日でお酒は一旦やめようと思うんです。だからその、これ処分するためにせんぱい飲んでくれませんか?」


 上目遣いを巧みに使用して、白鈴はそう問いかけてくる。

 常人ならここで「任せろ」とかっこよく引き受けるだろうが、生憎俺は玄人である。冷静に判断する。


 はっきり言って、俺は酒があまり好きではない。それに加えてこの量を一人で飲むというのは、もはや酒豪くらいにしかできないだろう。

 だがここで「俺は酒弱いから飲めないお」なんて断ったら、頼れる先輩としての威厳が危うい。

 ならば、


「いや、これを俺一人じゃ到底飲めない。だから白鈴も、最後の晩餐的な感じでパーッと一緒に飲んでくれないか?」


 合コンで水を差したお詫びに、俺は白鈴を飲みに誘った。



 ○○○



 「やーい! せんぱいのへたれ! 寝取られ男!」

 「んだとこのアマぁ! 可愛いからって調子乗ってんじゃねえぞ!」

 「あっはっはっは! 怒った! せんぱいが怒った! あっはっはっ!」


 時刻は午後……。いやもしかしたら午前かもしれない。

 もう飲み始めて何分経ったのかも、何本飲んだかも分からない。分かるのは唯一、俺と白鈴が抜群に酔っているという事実だけだった。

 ベッド上でゲラゲラ笑う白鈴と、ソファーで酒を溢しながら声を荒げる俺。テーブルの上に散乱した空き缶とおつまみの数々。

 こんな地獄絵図はいつから完成したのだろうか。


 互いにビールが残り一本になったとき、白鈴が「最後の一本は贅沢に行きましょう! おつまみを買いにいざコンビニへ!」と言って、近所のコンビニに行ったのだ。

 そしてそれが間違いだった。


 白鈴がそこでふと、「せんぱい、まだ飲み足りないですー」と言ってきたのだ。酔って気が大きくなった俺は、おつまみに加えて、追加の缶ビールを数本購入し、ただの酔っ払いから酔い潰れへと進化、いや、退化してしまったわけである。


 俺は酔うと歯止めが効かなくなるタイプだという自覚がある。以前飲み会でつい飲み過ぎて、元カノに家まで送ってもらったときもあった。そして大抵の場合、俺は目が覚めると記憶がなくなっている。いつから飲み始めたのか、誰と飲んだのかも忘れるほどに。


 だから彼女に振られて精神的にキツい今、酒を一口でも飲んだらそのままベロベロに酔っ払うことは想定していた。酒というのは、心の疲れを一時的に癒してくれる。それに頼ったら俺は、失恋から抜け出せなくなる気がしていた。


 だが今の俺は、完全に自棄酒やけざけで潰れて、もはや理性が効かなくなるまでに興奮していたのだ。


「ねえ! さっき可愛いって言いましたよね! せんぱいそんな風に私のこと見てたんですね。嬉しいけど、それじゃあむっつりスケベじゃないですか!」

「確かに可愛いぞお前は。胸はペチャパイだけどな!」

「はあ!? Cカップはでかい方なんですよ! 巨乳に夢見てんじゃねえぞ童貞が! あっはっは!」

「綾沙はEカップだったぞ、Cカップの白鈴!」

「でもフラれましたよね? はい論破! それに、童貞は否定できないんですね! このへたれ!」


 とまあ、このように秩序もくそもないような、無法地帯となってしまったわけである。唯一の救いはこの部屋の壁がコンクリートであることだけだ。普通の壁だったら、周りの部屋全てからクレームが来てもおかしくないほどには大音量で騒いでいる。


「お前も処女のくせに調子こいてんじゃねえ!」

「女の子は処女の方が価値があるんですよ、童貞さん!」

「分かった! そこまで言うなら今ここで俺の童貞捨ててお前の処女も奪ってやるよ!」

「やってみろや童貞! どこに入れるのか分かんのか!?」

「とっくに予習済みだ、舐めんじゃねえ!」


 ベッドに腰をかけている白鈴を押し倒して、彼女の上に覆いかぶさる。可愛くて小さな顔が赤く染まり、呼吸が乱れる彼女を上から見下ろす。それが酒による物なのか、はたまた照れているのかはもはや分からない。

 彼女は挑発的な笑みを浮かべて「ふん」と鼻を鳴らす。その仕草が、妙に俺の色欲を誘った。

 勢いに任せて胸のボタンを外していく。彼女は自信に満ち溢れた表情でそれを見守る。


 こんなこと、元カノにもしたことがなかった。


 ピンクの愛らしい下着が露わになり、昼間に俺を誘惑した控えめな胸が半身を覗かせている。


 正直俺は興奮していた。酒を長らく飲んでこなかったからか、失恋でへたった精神の反動で暴走しているのかは分からないが、自分の中に溢れる高揚感だけは確かなものだった。


 だがそこで彼女の顔が更にに紅潮した。

 そして、


「や、やっぱりダメ……、恥ずかしい……」


 と、顔を手で隠して、先ほどまでとは別人のような変わり様を見せた。別人のような、つまりは素の白鈴みたいに。


 そんな白鈴の様子を見て、俺は瞬間的に酔いが覚める。刹那、俺が今何をしようとしていたのか。その下衆な行動を自覚して、慌てて彼女から離れる。


「わ、悪かった。行き過ぎた。本当にごめん。許してくれ」


 俺はベッドから降りて頭を下げる。立ちくらみが酷いがそんなことに構ってはいられない。ここで頭を下げなければ人間としての良心だけではなく、彼女と築いてきた関係までもが崩れてしまう気がしたのだ。

 だが、頭の方からは鼻をすする音が聞こえる。もしかしたら、泣いているのかもしれない。


「いや、全然気にしてないです、顔上げてください。ただちょっと、私がへたれなだけで……」


 言われて白鈴を見ると、彼女は服の袖で涙を拭っていた。

 途端に胸が苦しくなる。酒による痛みではないことはすぐに分かる。

 その苦しさをどうにかして晴らしたくて、俺は彼女に謝罪を重ねる。


「いや、へたれとかの問題じゃない。俺が白鈴に、そういう関係のない女の子に手を出したことが問題なんだ」


 これは紛れもない事実だ。酒が入っていたなんて言い訳にならないほどに、俺のしようとしたことは完全悪だった。


 だが、白鈴は俺に救いの手を差し伸べる。


「私は、せんぱいとしてもよかったんですよ。少し恥ずかしかったけど」


「…………」


「そんなに気を落とさないでください。なんだか私が悪いみたいです」


 白鈴は笑ってみせるが、何を言われても俺が悪いという事実は変わらなかった。


「私はこのことがきっかけで、せんぱいとの距離が遠くなるのが一番嫌なんです」


「……それは、俺も同じだ。こんなことを言う資格はないかもしれないけど、俺もこれで白鈴との距離が遠くなるのは嫌だ」


 彼女を失った勢いで、仲良くしてくれる後輩まで失うのは耐えきれなかった。


「でも、このままだと絶対に縁は切れてしまいます」


 無慈悲ながらも揺るがない事実を告げられる。

 彼女はそこで一区切りをつけて、次に発する言葉が明るくなるように笑顔を見せつける。


「だから、いい方法があるんです」


 白鈴は真面目臭くもあざとくもなく、ただ自然に、いつもは到底見せることのない素の表情と声音で言葉を綴る。


「私と、付き合ってくれませんか? せんぱい」


 突然の告白に、俺は頭がついていけない。白鈴は、自分を襲おうとした男に、付き合おうと言い出しているのだ。

 そんな俺の心情を読んだかのように、白鈴は笑みを浮かべてこちらを見る。


「今、『どうして?』って思いましたね? お酒の勢いで全部言っちゃいます。私、高校の頃からせんぱいのことが好きだったんです。大会の応援に行ったり、変な理由つけて話しかけたりしてました。だけど、せんぱいの隣にはいつもあの人がいて、それがどうしても嫌で……」


 白鈴は顔を手で押さえて泣き出した。涙で震える声音が、本当に勇気のある告白であることを再確認させる。


「せんぱいが失恋したって言ったとき、私は内心で喜んでいました。他の女の子とご飯を食べたって言ったときも、合コンで他の子と話してたときも、すごく嫉妬しました。自分でせんぱいの恋を応援するって言ったのに、言葉と心が合わなくてモヤモヤしました」


 それは完全に独白だった。隠していたはずの感情が悲鳴を上げて、どうにもならずに漏れ出している。


「今日の合コンだって、お酒でせんぱいと近づきたくて呼んだのに。せんぱいをお持ち帰りしたくて、汚かった部屋をきれいに片付けて。頑張って最後までいったのに、私はそれを拒否しちゃって」


 涙の混じった声で、白鈴はなんとか想いを口にする。言葉はなんとも拙くて聞き取りづらいものだったが、要点だけはしっかりと伝わってくる。


 彼女は、本当に俺を思ってくれているということが。


「だから、せんぱい。私と付き合ってください。私はせんぱいが大好きです。せんぱいに拒否権はありませんよ、さっきまで私を襲おうとしたのは誰ですか?」


 顔から手のひらを離した白鈴からは、いつも通りのあざとい笑みが見える。だがそれが強がりなことはすぐに分かる。

 彼女の目元は赤く腫れていて、今も必死に涙を堪えてるようだった。


 そんな頑張る少女の誘いを、俺は到底断ることなどできなかった。

 いや、そんな言い方は焦ったい。

 

 愛らしい白鈴のことを今この瞬間、不覚にも好きになってしまったのだ。


「拒否権があっても断らないよ。付き合おう、白鈴」


 その瞬間、白鈴の瞳から涙が溢れる。「うっ」と嗚咽すると、そのまま胸に抱きついてくる。

 少し驚いたが、胸に顔を埋める彼女はなんとも弱々しくて、俺はそっと彼女の肩を抱きしめる。

 抱きしめているだけなのに俺の胸は熱くなり、彼女の温もりを感じる。


「せんぱい、大好き……!」


 胸の中でそう言う白鈴を、俺は何も言わずに抱きしめ続ける。


 だがつい、恋心を伝える白鈴につられて俺も心が漏れてしまった。


「俺も大好きだよ、白鈴」



 ○○○



 自らの吐息と、もう一人の誰かの吐息だけが耳に聞こえる。

 うつ伏せの俺の下に広がるのは、自宅のベッドにしてはふかふかでいい匂いのするシーツ。

 うっすらと目を開けると、俺の腕で白鈴が気持ちよさそうに寝ているのが見える。

 

 ……白鈴が見える?


 その瞬間、違和感に気付いて慌ててベッドから降りる。

 本能的に時計に目をやると、時刻を表す針は午前十時を示している。カーテンの隙間からは日差しが差し込んでいて、少し遅い朝の訪れを告げているようだった。

 そして、一番の大問題に気づく。


「……やばい、思い出せない」


 昨晩のことを全く覚えていないのだ。

 

 合コンに行ったり西ノ瀬に会ったことは思い出せるが、帰宅した記憶が一切ない。その証拠に俺は、白鈴の部屋であろう場所で目覚めた。


 ちょっと待て、俺は白鈴と同じベッドで目覚めたのだ。

 つまりワンナイトの中で、そういうことをしていた可能性がある。


 血の気が引いていく感覚に恐怖を覚えて部屋を見渡す。

 テーブルに散乱した缶ビールとおつまみを見るに、結構な酒を飲んだことは確かだろう。何より、少し頭がぐらつくのがいい証拠だ。

 だがそんなことよりも、俺はあるものを探す。


「あった」


 床に置かれた荷物の中から財布を取り出す。財布を開けて、ポイントカードなどと一緒に入っていたあるもの・ゴムを取り出して床に並べる。


「一、二、三、四……」


 それらを数えると無事に四つ、つまり元の数が残っていた。よかった使っていない。これでひとまず安心である。


 …………。


 いや、酔った勢いで生でやったのかもしれない。

 適当な白鈴のことだ。生でやらせてくれてもおかしくはない。


 いやでも待てよ? 俺と彼女は服を着てるし、ティッシュも転がっていない。なにより、俺の息子は実に元気である。

 これはやっていない説が濃厚なのではないだろうか。


「やってない……っぽいな」


 やっと安堵のため息をつくことができる。寝坊したときのような、慌ただしい目覚めになってしまった。


 そんな忙しい俺の空気に当てられてか、白鈴も薄く目を開けて朝を迎えた。


「おはよう、白鈴」

「……おはよ、せんぱい」

 

 白鈴の笑顔はどこかいつもと違うように見えた。なんというか普段よりあざとさがなく、自然さがある可愛らしいものだったのだ。寝起きの影響だろうか?


「せんぱい、こっち来て」


 彼女は唐突にそんなことを言いながら両手を広げる。白鈴はなんだか頬が赤るんでいて、まだ酔っているのかと疑ってしまう。それにやはりどこか、いつもの彼女と違う感覚を覚えた。


「……そういうのは彼氏にやってくれ。適当な男を誘ったらダメだぞ」

「え……?」


 途端、白鈴の表情が明らかに沈んでいく。

 まるで、親の死でも聞いたようなその顔色は、底知れぬ絶望に染まっていくようだ。

 まずい。照れ隠しとはいえ、言い過ぎたかもしれない。

 俺は空かさずフォローを入れる。


「いやまあ、白鈴は可愛いから、すぐに彼氏なんてできるよ」


 そう言って慰めるが、白鈴の表情は晴れるどころか更に曇っていく。そして突然目元を押さえて、聞こえるか聞こえないかの嘆くような小声で呟いた。俺にはそれが「私って馬鹿だ……」に聞こえた気がした。


「おい白鈴? 大丈夫か、二日酔いか?」


 心配になって背中を叩いて問いかける。

 するとしばしの硬直の後、白鈴はニコッと笑みを浮かべてこちらに振り返った。


「大丈夫です! 私はお酒に強いので!」

「いやお前未成年だろ……」


 白鈴はいつもの調子であざとく言う。よかった、普段の彼女に戻れたようだ。

 そしてそんな彼女の頭を見て、俺は少し微笑みを溢す。

 暗い部屋の中でよく見えないが、そのシルエットは芸術的なまでの寝癖を示している。

 大きな寝癖をつけた彼女はなんとなく可愛くて、俺は意地悪で何も言わずに話しかける。


「なあ白鈴、昨晩のこと覚えてるか? 実は俺、昨晩のことを全く覚えていないんだ」


 変な聞き方だが白鈴は少し沈黙した後、愛らしい笑みを浮かべながら答えてくれる。


「私も記憶がないんですよー。でも夢の中でせんぱいが私に、『大好きだよ』って言ってくれてました!」

「おめでたい夢だな」


 やっとのことで俺の気が晴れる。危ない危ない、酔った勢いで手を出していようものなら、俺は腹を切って自害するしかなかった。


 眠気覚ましにカーテンを大きく開けて、すっかり上りきった太陽を迎える。

 すると白鈴が突然戸惑いの声を上げた。


「う、うわぁ! せんぱい、こっち見ないで! ちょっと待って!」

「お、やっぱりすごい寝癖だな」


 後ろ姿だけでも十分にその寝癖の美的センスが伝わってくる。

 白鈴は頭を押さえてトコトコと洗面所に向かって行く。朝から忙しそうなやつだが、俺も人のことを言えなかったのは事実である。

 だがそんなことよりも、

 

「あぁー、気持ち悪い」


 頭がなんともぐらついて、俺は思わず壁にもたれかかる。

 足元もおぼつかない気がして、思わず唸り声を上げて床に屈み込む。


 これだから酒は嫌いなのだ。

 飲み過ぎれば翌日に、そのツケである二日酔いがやってきて、目覚めたての俺の心を曇らせる。

 いくらいい想いをしても、これでは毎回後味が悪い。


 ……でも今回は何故か、少し違う気がする。

 なんだろう。

 俺の中の何かぎ吹っ切れて、かえって心が晴々した気がするのだ。



 ○○○

 

 

 彼が忘れていてよかった。

 本当に覚えていなくてびっくりした。

 少し動揺した。でも気づかれないでよかった。

 寝癖があってよかった。カーテンを開けてくれてよかった。こっちを向かなくてよかった。彼が寝癖を恥ずかしがったと勘違いしてくれてよかった。

 

 泣き顔を見られなくてよかった。


 私が泣いたら彼は絶対慰めてくれて、その理由を聞いてくれる。そして理由を聞いたら慈悲深い彼は己を責めて、きっとまた私と付き合おうって言ってくれる。

 だけど、それじゃダメなんだ。


 昨日はお酒に頼って好きと言ってもらえた。今回だって、私が泣いたら彼は好きと言ってくれる。

 でもそれでは、絶対にダメなんだ。


 目が覚めたときには、今日から薔薇色の毎日が始まると思った。だからつい抱きしめたくなって、両手を広げてしまったのだ。でも彼は覚えていなかった。ただの先輩と後輩の関係のままだった。恋愛関係には発展していなかった。

 そう思ってたのは私だけだったのだ。ほんとうに、なんともおめでたい。


 私はいろんな夢を見た。

 二人で初詣で恋みくじを引いたり、おいしくないチョコを彼にあげたり、夏祭りで浴衣姿を褒めてもらったり、クリスマスの晩に二人でディナーを楽しんだり、付き合い始めて一周年を二人で祝ったり。

 とにかくいろんな夢を見た。

 そしてそれはやはり、叶うことのない夢だった。

 

 実際の関係はただの先輩と後輩。

 旅行に行くことも、唇を重ね合わせることも、手を繋ぐこともできない。そんな大したことのない関係。


 これが本来の状態なのに、これがあるべき姿なのに、涙が溢れて仕方がない。

 彼に言われた言葉が、頭の隅から離れない。

 一度言われて、あの気持ちを知って、認めてしまったから。

 

 彼には忘れないで欲しかった。

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