第9話

「ぐっ……雪女!」


 冷気が届くより一歩早く、影が闇の中に溶ける。


『貴様、何者だ』


 闇の中、声がホールに響き渡った。


「小生はラフカディオ。ずいぶん手荒な歓迎じゃないか、オペラ座の怪人――ファントム!」


 息を整え、目を閉じて神経を研ぎ澄ます。自分を取り巻く闇に潜む怪人の気配を見逃さないように。


『歓迎だと? 戯言を。ここは貴様が来るべき場所ではない!』


 怒気をはらんだ声と共に再び疾風がラフカディオに襲い掛かる。

 しかし、今度はラフカディオの方が早く動いていた。雪女によって作り出された氷壁が怪人の一撃を阻む。


『ちぃ……っ』


 その一瞬の隙を逃さず、ラフカディオは語り掛ける。


「小生はここに戦いにきたわけではない。歌姫を守るため、お前さんの力を貸してほしいのだ」


『歌姫……クリスティーヌの事か……?』


 効果は覿面。ファントムは飛び退って闇の中に消えるが、すぐには攻撃に移らずこちらの様子をうかがっている。


「まぁ守るのは歌姫ではなく世界なのだが、大した違いはあるまいさ。お前さんはオペラ座ここの地下に広がる水路に根を張っていると聞く。ここ数か月、そこで何かおかしなものを見たり感じたりはしていないかい?」


 しばらくファントムは沈黙したままだった。ラフカディオが信用に値するかどうか量っているのだろうか。


『……ひと月ほど前のことだ。水路に奇妙な物がいくつか設置されている事に気が付いた。白色の卵型の物体だ。それが貴様が知りたい事かは知らぬがな』


 その言葉を残し、ファントムの気配が遠ざかっていく。


(卵型の物体……?)


 それについてもう少し詳しく聞きたいが、すでにファントムの気配は遠くになっている。となるとラフカディオ自身が地下に潜って現物を見るしかないが、また激昂したファントムと戦闘にならないとも限らない。


「くっ……」


 忘れていた患部の痛みが、全身にジワリと広がっていく。傷は想像以上に深く、一瞬反応が遅れていれば相手の得物が内蔵にまで達し、致命傷になっていたはずだ。


「今宵は、これで撤退かな……」


 時折ふらつきながら、ラフカディオはホールを後にする。ホールの上、それを見ていたファントムも又、再び闇の中へと姿を消した。















 演奏会、1日目当日。

 いつも通りに目覚めたラフカディオは、いつも通りでない行動から朝を始めた。

 洗面所の蛇口を捻り、流れる水を手ですくう。

 そして――。


「――――――!」


 部屋中に大きな音が響いた。

 鏡を見れば、ラフカディオの白い頬がみるみるうちに赤く変わっていく。当然だ。一切の加減なく、全力で手のひらを打ち付けたのだから。


「……これでいい」


 自分の行為を再確認するようにラフカディオは呟いた。

 2日前、オペラ座を訪れたラフカディオはファントムによって傷を負わされた。その傷は深く、ラフカディオの治癒力をもってさえ自由に動けるようになるまで一日を要した。それはつまり、問題解決のために動ける時間を一日分捨てた事と同義である。

 しかし、本来であればファントムの攻撃など簡単に避けられたはずだ。暗闇、そしてファントムのホームともいえるオペラ座での戦いなど不利な要素はいくつかあったが、つまるところラフカディオは油断していたのだ。

 今こそもう一度気を引き締めないといけない。ラフカディオの肩にはこの想区に住む何十何百万もの人間の命がかかっている事を、痛みを通して改めて認識する必要があった。


(まずは演奏会だ。貴族の2人が出てくるのは2日目以降……。とはいえ一日目で選ばれなければ次のステージに進むことはできない)


 演奏会1日目は4つの会場で行われる。各会場に16人。そこから半分の8人が演奏会の2日目に出る事ができる。出演者の振り分けはランダムだが、八仙楽アハト・セレンだけは意図的に分けられているらしい。


(マダム・セーラと同じ会場になれれば好都合。あまり期待は出来ないが)


  宿を出る前に主人から手紙を受け取る。封を切ると、そこに書いてあったのはラフカディオが向かうべき会場の名前だった。「アディラータ公会堂」……どうやら一番小さな会場を引いてしまったようだ。

 公会堂は街の中央からやや南、オペラ座とは反対の方向にあった。白地の壁に茶色の屋根の、時代を感じさせる木造建築だ。しかし一番小さいと言っても楽団が演奏できるほどの広さはあり、また外観に反して内装は真新しい。演奏会を開催するにあたって貴族達が街の設備をいろいろ整えたらしく、この公会堂もそうした建物の1つなのだろう。

 不意に外が騒がしくなる。最後の調整にと鳴らされていた楽器の音が一様に止み、かわりに畏敬を多分に含んだ声が公会堂の前から広がっていく。

 公会堂の前に止められた馬車から一人の男が降り立った時、そのざわめきは最高潮に達した。癖のある白髪を腰まで伸ばし、黒いコートをまとった長身の男。肌の色は病的に白く、それを隠すかのように手には包帯を巻き顔には赤と白の仮面をかぶっていた。

 さらにその後ろからもう一台の馬車が現れた。屋根が取り払われ、本来ドアがあるべきところにはガラスがはめられた奇妙な馬車の中には水がたっぷりと満たされている。

 馬車が止まると、屋根の部分から水しぶきをあげ少女が顔を見せた。まだあどけなさを残す少女の耳にはひれがあり、水の中で魚の尾が動いているのがガラス越しに見える。


「ごきげんはいかがかな? レディ・マーメイド」


 従者が持ってきた、台車付きの水入りガラス玉に入った少女に、男が話しかける。


「その呼び方は止めてくださいって言いませんでしたっけ。サリエリさん」


「そうだったな、レディ。しかし、一緒になったのが貴女でよかった。アーウィンの八仙楽と当たれば手を抜くわけにはいかなかったからな」


 言外に今からの演奏会では手を抜くと宣言したようなものだが、周りにいる者たちはそれに怒る様子もない。むしろ、それを堂々と言える男を尊敬してすらいるようだ。


(あれがノムセルト派の八仙楽、アントニオ・サリエリに人魚姫か……)


 どうやらマダム・セーラは別の会場にいるようだ。もともと大して期待はしていなかったとはいえ、落胆の気持ちはそれなりにある。

 演奏会一日目の一人当たりの持ち時間は10分。曲の指定もない。10分以内であればどのようなパフォーマンスをしても許される。一般公募という名の数合わせに近かったミニコンテストとは違い時間は十分に取られている。ただインパクトがあるだけではなく、総合的な技量が求められるのが演奏会一日目という事らしい。

 やがて開演を告げる鐘が鳴らされ、最初の演者が舞台に上がる。ラフカディオ達は舞台の横手にある控室に集まっていたが、そこの小窓からも公会堂を埋め尽くさんばかりの人が詰めかけているのが見えた。

 舞台に上がったサリエリは仰々しく礼をすると、用意された椅子に座り自身の楽器に向かい合う。小さな木製のピアノとでもいうべきその楽器に、サリエリの長い指が静かに乗った。


「サリエリさん、今年はチェンバロでやるんだな」


 ラフカディオの隣にいた若い男が言う。その口ぶりからして、彼もノムセルト側の楽師らしい。


「今年は、という事は去年は別の楽器を使っていたのかね?」


「あ? そうだよ。あの人はチェンバロ、ヴァイオリン、声楽のプロだからな。毎年楽器を変えて演奏会に出ているんだ。それなのに毎年最終日まで残るし、おまけに楽器演奏は本業じゃないんだぜ⁉ あの人もモーツァルトさんやショパンに並ぶレベルのバケモンだよ」


 見知らぬ男の問いかけに若者は不審な目を向けたが、ラフカディオが外からきた無所属の音楽家だと分かったとたんに饒舌になる。やはりこういうところでも派閥間の軋轢というのは存在するのだろう。

 舞台の上ではサリエリの奏でる音が聴衆を魅了していた。穏やかな曲調から一転、指が盤上を駆け巡り聞き手の心も否応なく高められていく。そして興奮が最高潮に達した時、突如静寂。レールを失い落下する聴衆の心は次の穏やかな音の波に掬われる。休む暇もなく高められ、落とされまた高められる。音に支配されているという表現でしか表せない10分間はあっという間に過ぎていった。

 熱に浮かされたように拍手する聴衆を満足げに見てサリエリは舞台を後にする。


「2番。ラフカディオ」


 ラフカディオの名が読み上げられた。立ち上がるラフカディオに部屋中から憐憫の目が向けられる。所詮は無名の音楽家。ミニコンテストで勝ち上がったのだから実力はあるのだろうが、あの超絶技巧の前には霞んでしまうだろう。せいぜい八仙楽によって上げられたハードルを下げてくれ――と。

 ラフカディオはそんな視線を気にも留めず舞台にあがる。控室にいる時には見えなかったが、客席の最前列には審査員が3名並んでいる。そのうちの1人はミニコンテストの時にもいた中年の太った男だ。その目には控室にいた他の演者同様、わずかに同情の色が浮かんでいた。

 ラフカディオが頭を下げると拍手が湧き上がる。

 今日はミニコンテストの時に少し弾いた曲をやるつもりだった。しかし考えが変わった。音楽家の端くれとして、サリエリの演奏に触発されたのか、気持ちが昂る。


「……いこうか」


 小声でつぶやく。頬をわずかに紅潮させたラフカディオは最初の一音をまっすぐ客席に向かって放った。










 「―—―—―—―—―—♪」


 最後の演者である人魚姫の声が公会堂の中に染みわたっていく。悲哀の感情を音にしたかのような声は心の中に入り込み、感情を刺激する。客席のあちこちからすすり泣きが聞こえてきていた。


「―—……皆さま、最後まで聞いていただきありがとうございました」


 歌唱が終わり人魚姫がゆっくりと頭を下げる。それに対して静かな拍手が起こり、いつまでも鳴りやむことはなかった。


(これで1日目は終わりか。2日目に進めるといいのだが、果たしてどうなるか)


 ラフカディオは控室を出て狭い廊下で腰につけてあった瓢箪を取る。

 前から分かっていた事ではあるが、八仙楽の音楽はやはり次元が違う。サリエリと人魚姫、音楽の方向こそ違えど2人とも最高クラスの楽師であることは疑いようもない。


(浮かれた気分のまま街に出るわけにはいかないからな)


 酒を流し込み、頭を冷やしたちょうどその時、廊下の奥から何かが近づいてきた。


「すいませーん、少しどいてもらえますかー」


 従者が押している台車には人魚姫の入った水球が乗せられている。人魚姫はラフカディオを見ると、驚いたように目を見開いた。

 そして水球がラフカディオの隣まで来た時、人魚姫が従者を止める。


「……此処で止めてもらってもいいですか?」


「え、でも結果の発表が……」


「サリエリさんに後から伝えてもらいます。いいですよね」


 いつになく言葉を強める人魚姫に、従者はしぶしぶ承諾する。話を取りつけた人魚姫はラフカディオに向き直る。


「あなたはサリエリさんの後に演奏してらっしゃった方ですよね? 私は人魚姫。サリエリさんと同じ、ノムセルト家の専属楽師です」


「お噂はかねがね。小生はラフカディオと申します。して、その人魚姫様が一介の旅人に何の用ですかな?」


 人魚姫は少しの間言い淀んだ後、意を決したようにこう切り出した。


「あなたの音楽、聴かせていただきました。聞いているだけで心が鼓舞されるような勇ましい音楽、それでいて終わった後には寂寥感に囚われる、素晴らしい演奏だったと思います! あれは何という曲なのですか?」


「身に余る言葉です。あの曲は小生が作った曲でしてね。はるか東、その魂までも主君に預けて戦う武士モノノフと呼ばれる者共がいます。彼らをイメージした曲なのですよ」


「そうなんですね。演奏だけでなく作曲の才能もあるなんて。……そのお話を聞いて改めて思いました。あなたほどの人が今まで誰の目にも止まらずにいたなんて信じられません。何か理由があって隠しているだけで本当は誰かの専属楽師なのではありませんか?」


「まさか。小生は正真正銘、ただの流れ者ですよ。いくつかそう言ったお話もいただきましたが、すべて断っています」


 人魚姫の問いにラフカディオは笑いながら首を振る。


「そうですか……。失礼いたしました」


 人魚姫は残念そうに目線を落とす。


「人魚姫様。もしよければ小生の質問に一つ答えていただいても構わないでしょうか」


「えぇ、なんですか?」


「あなたは本来であれば海辺の国にいるはずです。いかなる運命をたどり、この街に来たのか、それをお聞かせ願いたい」


「……知っていたのですね、私の本来の運命を」


 人魚姫の口調が一気に重たくなる。


「私はもともとは海底の王国に住んでいました。15の時、人間の王子に恋をした私は声と引き換えに人間の脚を得ます。だけど王子は私の気持ちに気づかず別の女性と結婚する事になりました。王子の愛を得られなければ私は海の泡になってしまいます。魔女に渡されたナイフで王子を刺し、その血で人魚に戻るか、それともこのまま海の泡になるか。私は海の泡になる事を選ぶ、そのはずでした……」


 人魚姫が顔を抑える。その声には嗚咽が混ざっていた。


「……すみません、少し取り乱しました。本当なら姉たちからナイフが渡される日、私の下に届いたのは赤い液体の入った瓶でした。おいしいジュースだと同封された手紙には書いてありました。……私が気づいた時には既に手遅れでした。体は人魚のそれに戻り、迎えに来た姉たちに私は海に戻されたのです」


 人魚姫の感情を表すように、水につかった尾がゆらゆら揺れている。


「城では王子殺しの犯人として、私と親しくしていた従者が処刑されたそうです。聞けば、彼が姉たちを説得してナイフを受け取ったと。

 私も一緒だったんです。あれほど一緒にいたはずの彼からの好意に気づけなかった。私には王子様を責める資格はありませんでした。

 愛する人と愛してくれる人を同時に失った私は廃人同然になりました。毎夜海の上で歌を歌う壊れたレコードのようでした。その時にフラディル様に出会ったのです。何も残っていない私だけど、私の歌が人の心を慰めるのなら……、そう思って私はノムセルトの楽師になる事に決めました」


「そう言う事ですか……。辛い過去を聞いてしまいました、申し訳ない」


 おそらくその従者は空白の書の持ち主だったのだろう。悲劇の運命を回避するために自らの手を汚し、結果として人魚姫にさらなる重荷を負わせてしまった。しかし彼を責める事もまた難しいだろう。不条理な運命に周りが誰も違和感を感じない状況で、自分だけがその運命をはねのけられるとなればヒロイックな感情に蝕まれることも仕方がないと言えるはずだ。


(人魚姫というとどうしてもあの少年を思い出すな……)


 その時午後の3時を告げる鐘が鳴る。たしか3時に結果が発表されるはずだ。


「それでは小生は失礼させていただきます」


 人魚姫に軽く頭を下げ、ラフカディオはその場を去った。残された人魚姫は複雑な表情で遠ざかるラフカディオの背中を見つめている。

 

「ふふふ……彼はどうだったかねレディ」


 ラフカディオが角を曲がって消えたのと同時、サリエリが姿を現す。


「審査結果の発表はいいんですか?」


「貴女は夜が来る度に、明日の朝、東の空から太陽が昇らないかもと心配するのかね? 行くだけ時間の無駄というものだ」


 高笑うサリエリに人魚姫は小さくため息をつく。


(こういう高慢なところが無ければもっと弟子志望の人も来ると思うんだけど……)


「何か言ったかね?」


「いいえ。それより、ラフカディオさんの事です。彼はどこにも所属していないと言っていましたが、それは間違いないと思います。確かにあれほどうまい人が無所属ってのはにわかには信じられませんけど……。なんでサリエリさんはそこまで気にしているんですか?」


「くく……ふはは……!」


 サリエリの口から笑い声が漏れる。


「貴女は知らなくていい事ですよ……」

 

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