第6話
今宵はまさしく月夜である。静寂が周りを包み、夜の涼やかな風が頬を撫ぜ、柔らかな月光が降る夜。酒の肴には十分すぎる景色だったはずだ。
しかし、この街でその景色を見る事はかなわないようだ。ラフカディオがいるのは大通りから少し外れたところにあるカフェのテラスだが、街灯の光によって辺りはまるで昼のような明るさを保っている。おそらくこの街全体がそうなのだろう。日の光を受けられなくなってなお、街は輝くことをやめず、喧騒も止むことはない。音楽の街、アディラータは紛れもなく不夜の街だった。
ラフカディオは少し名残惜し気に空に浮かぶ満月を眺める。
「……ふふ。こうしていると思い出すな」
それはかつてとある想区を訪れた時の事。ラフカディオは今日のような月の下、鬼の頭と仙人と酒を酌み交わした。
あの時の酒の味は今でも忘れられない。神仙の用意した美酒だったというのもあるかもしれない。しかしそれだけではこうも強く記憶に焼き付くことはないだろう。もしかしたら、「ラフカディオ」という存在自体があの想区に合っていたのかもしれない。
事実、あの想区での出来事はその一つ一つをはっきりと覚えている。遠くから見た都の姿も、陰陽師の星を手繰る動きも、凍えるような奥州の風も、そして肉を貫いた感触も全て、全て覚えている。
「……うん、大丈夫だな」
街灯の灯りにかざした手は震えていない。
(小生はプログラムだ。墓守として、処刑人として作られたプログラム。何があろうとすべき事は変わらない)
この世界にはもう「調律」の力も「再編」の力も存在しない。ならば誰かがそれをやらなければいけないのだ。
――「できる」からと言って、「したい」わけではないでしょう?――
(それは思い違いだ、イソップ。プログラムに心などあるものか。「できる」からでも「したい」からでもない。小生はただするだけだ)
自虐的にラフカディオはそう思う。わずかに胸に走った痛みには気づかないふりをして。
「っととシリアスな雰囲気出しているところにすみません! どうもこんばんはお兄さん!」
場の空気を完全に無視して、その少女は唐突に現れた。
二本に分けられたくすんだ橙色の髪に、わずかに赤みのさした頬。身にまとう衣服はこの街には似つかわしくない粗末なもので、あちこちに布当てがされており拙い縫い跡も目立つ。手には大きな籐の籠を持っており、少女の動きに合わせて音を立てていた。
場所が場所ならよくいる貧困層の子供だと思っただろう。想区の原典となる物語の多くが中世かそれ以前に描かれたものだ。人権などという概念は無いに等しく、貴族がこの世の春を謳歌している横で、その日の食事もままならない人々が町にはあふれていた。
しかしこの街は違う。貴族による搾取は存在せず、人々も裕福な生活を送れている。昼に街を歩き回った時も、少女のようにみすぼらしい恰好をしている者は見なかった。その少女が、格好に似つかわしくない希望に満ち溢れた純真な目をしている事も着ている衣類の異物感を増幅させている。
「君は……」
ラフカディオがそう言いかけると、少女は待っていましたとばかりにその場でくるりとターンをしてポーズを決めた。
「よくぞ聞いてくれました! 何を隠そう私こそが町一番の情報通、揺りかごから墓場まで何でも情報を売るマッチ売りの少女とは私の事です……っわぁ⁉」
バランスを崩したマッチ売りは派手に転ぶ。手を離れた籠からは、大量のマッチの箱がこぼれだした。
「あいたた……」
(なるほどね。この想区はマッチ売りの少女の物語も含んでいるのか)
であれば彼女の身なりにも説明がつく。下手な縫い跡も、おそらくは彼女自身がやったものだろう。
ラフカディオは散らばったマッチの箱を集め、マッチ売りに差し出す。
「あぁ、ありがとうございます! お兄さん、優しいんですね」
いそいそと箱を籠の中にしまい、マッチ売りは笑った。
「それで? マッチ売りなのに情報屋とはまた異な話だが」
「『さぶびじねす』ってやつですね。このご時勢、マッチ一本じゃやっていけないんです。百パーセント……とはいかないですけど、それなりに正確な情報をお届けできると思いますよ?」
ラフカディオの問いかけに少女はそう答える。
(なるほど。この想区のマッチ売りの少女はそのような設定なのか)
アンデルセンによって書かれたマッチ売りの少女は有名な悲劇の物語だ。悲劇、という点では同じくアンデルセンの著作である人魚姫も有名だが、彼女が自分の意思によって泡になる事を選んだのに対し、マッチ売りの少女はただ理不尽な境遇の中で命を落とす。
その違い故か、マッチ売りの少女にはいくつかのバリエーションが存在する。原典へのアンチテーゼとして作られたそれらの作品群は時に肉体的に、時に精神的に少女を強くし、来る悲劇を回避する。
推察するに、このマッチ売りの少女もそうした創作の一つなのだろう。自身が子供であることを生かし、人々の警戒を解いて情報を盗み聞く。その中には重要度の高い機密もいくらか含まれているかもしれない。それを客に売って金を得る。おそらくそれが彼女の言う「サブビジネス」。原典のマッチ売りの少女に、強かに生き抜く強さと知恵を加えたのがこの想区での「マッチ売りの少女」なのだ。
「まぁ明らかにまずい情報とかは聞かなかった事にしてますけどね。この年で追われる身にはなりたくない……と、話がそれてしまいましたね。お兄さんは外からきた人みたいですし、そんな情報も必要ないでしょう。さぁ、気になる事はどんどん聞いてください! 自分が泊っている宿の評判だったり料理のおいしいお店の情報だったり、私が知っている事なら何でもお答えします!」
「そうだな……」
この少女が信用できるのかという疑問は残るが、今のラフカディオにとって情報は最も必要な物だ。ミニコンテストの開催まではまだ時間がある。その間は全て情報収集に費やすつもりだが、情報が早く集まればそれだけ早く筋書きを歪めている黒幕の正体を探る事ができる。
「……それでは、ジャリッシュ・アーウィンとフラディル・ノムセルト。この二人について知っている事を全て教えてもらおうか」
欲を言えばもう少し踏み込んだ事を聞きたいが、このマッチ売りが黒幕が差し向けた刺客である可能性も十分にある。ほんの少しの間とは言え、ラフカディオはキュベリエと行動を共にしていたのだ。警戒されるには十分すぎる。さらに言えば、黒幕自身がマッチ売りの少女として近づいてきた可能性すらあるのだ。
まずはただの旅人のように振舞い、それで最大限有益な情報を引き出す。相手が尻尾を見せたのなら、その場で捕えればいいだけの話だ。
「そんな事でいいんですか? もちろん知っている情報はたくさんありますけど……」
「あぁ。小生はこの街に来たばかりでね。まだ彼らの姿も見たことが無いんだ。それに音楽を愛する貴族は多くいるが、街全体を巻き込む大規模な音楽界を開催するのなんて彼らぐらいだ。なぜ彼らがそこまで音楽に執着するのか。そこが気になってね」
「そう……ですか。まぁ何を求めるかは人によって違いますからね」
少し訝しみながらも、マッチ売りは納得したのか籐の籠を漁る。
「情報としては全然普通の物ですし……そうですね。初回サービスという事で料金はこれくらいですね」
差し出されたのは、マッチの箱が三つ。
「一応本業はマッチ売りですからね。料金はマッチの箱換算です」
一箱分の値段を聞けば、ひどく安い。十箱買っても一食分の料金に満たない安さだ。ラフカディオはキュベリエにもらった袋から数枚のコインを取り出し、マッチ売りに渡す。
「お買い上げありがとうございます!」
これでお父さんに怒られずにすむ……。頭を下げたマッチ売りの口からそんな言葉が聞こえた気がした。
「……あ、そんな顔しないでくださいよ。もう慣れっこですから。私が売るのはマッチと情報だけ。同情を買うつもりなんてありませんからね!」
そんな顔? 顔を上げたマッチ売りにそう言われ、思わずラフカディオは自分の顔に触れる。しかし触れたところで、自分がしている表情が分かるわけもない。
「マッチの代金も払ってもらった事ですし……」
よっこらせとマッチ売りはラフカディオの体面に座る。
「それじゃあお兄さんの知りたい事について、話しましょうか」
「……私が知っている情報はこれくらいです。どうですか? 参考になりましたか?」
「あぁ、とても。マッチ三箱じゃ安すぎるほどにね」
「それは良かったです!」
マッチ売りは立ち上がり、くるりと回る。
「それじゃあ今日はこの辺で失礼させてもらいます。また欲しい情報があったなら遠慮なく声をかけてくださいね! この時間なら、毎日ここの近くにいると思います。……あ、私の事は周りの人には言わないでくださいね。表向きはただのマッチ売りですから」
そう言い残し、軽やかな足取りでマッチ売りの少女は去っていった。それを見送ったラフカディオも、ゆっくり立ち上がる。今日得た情報、それとマッチ売りから聞いた噂話。それらを精査しなければならない。
ラフカディオがマッチ売りの少女と別れたのと同時刻。
フラディル・ノムセルトの屋敷の屋上には二人の影があった。
「なんて……なんて綺麗な月なんでしょう」
「おや、歌姫様もこの月を見に?」
「はい。この月を見ていると故郷の事を思い出します。あの場所から見た月もまた、美しかった……」
「ニョホホ……、そうですね。ですが、私はこの月が恐ろしくてなりません。なんと青白く、そして大きい月なのか。あれは何かの凶兆ではないかと、そう思ってしまうのです」
その時、二人の背後にある扉が開く。
「二人とも間違っていない。月は美しく、そして恐ろしい。それこそが月の本質なのだから……」
男の唇が三日月を描く。
「あの月が僕らを祝福してくれているのか。それとも世界の崩壊の前触れなのか。非常に興味深い。だが、僕らは奏で続けるだけだ。世界が終わるその時まで。そうだろう? それが……音楽家の存在意義なのだから」
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