第125話 ラウル・タルボットの悔恨

 崖から飛び降りたエリヤフとタルボットはグロバストン王国の国境を流れるサレッタ川に落ちた。

 川は深く、流れが速かったが、そんなことは全く問題ではなかった。

 例え崖の下に川が流れていなかったとしてもふたりは崖から飛び降りることを選んだだろう。


 あの紅い髪の少女から逃げるためならば。


 サレッタ川の急流に流されながらもふたりは川岸に向かって泳いだ。それは助かるためと言うよりも怒れる聖女から逃げるための行動だった。


「エリヤフ、私はまだ生きているのか?」


 岸にたどり着いたものの、タルボットはあの怪物の怒りを目の当たりにした自分が生きていることが信じられなかった。


「やめてくれ。私だって自分がまだ生きていることをようやく受け入れられたところなんだ」


 エリヤフもタルボットと同じ心境だった。ふたりの体はガタガタと震えていた。

 それはずぶ濡れになったからではなくあのときの恐怖がまだ残っていたからだった。


 しばらくして震えが収るとタルボットがぽつりと言った。


「お前達はあんな連中を追っていたのか……」


 自分には到底不可能なことに挑んでいたエリヤフに対してタルボットは畏敬の念を覚えていた。


「私も間近で彼らを見たことはなかった……危険な相手なのは分かっていたつもりだった。だが、同時に私ならなんとか出来ると思ってもいた……とんでもない思い違いだったがな」


 エリヤフはなんとか笑い飛ばそうとした。しかし、どれほど笑みを浮かべようとしても体は言うことを聞かなかった。


「私などあの連中に軍人の怖さを教えてやるなどと言ったんだぞ。それがこのざまだ」


 タルボットもエリヤフに合わせようとしたが笑みを作ることなど出来はしなかった。彼の顔は唯々恐怖に引きつるばかりだった。


 ふたりがこびりついた恐怖を振り払おうと必死で努力していると、河原の砂利を踏みしめる音がした。


 エリヤフとタルボットは再び死の恐怖に震え上がった。


 紅い怪物が追ってきたのを確信していたふたりだったが、やってきたのはずぶ濡れの服から水をしたたらせたカイルだった。

 カイルは相変わらずの無表情だったが、肩を貸してマヤを支えながら歩いていた。マヤは川に落ちたときに水を飲んでしまったようでときおり咳き込んでいた。


「よかった……君たちだったか……」


 エリヤフはふたりが生き延びていたことに胸をなで下ろした。


「中佐、申し訳ありません。私はアルヴァンを倒すことが出来ませんでした」


 マヤはエリヤフに頭を下げた。


「気にすることはない。相手が悪すぎたんだ」


 エリヤフはかぶりを振った。

 マヤとカイルのこともあり、自分はアルヴァンを意識しすぎていたようだ。もちろん一番危険なのがアルヴァンであることに変わりはない。


 だが、アルヴァンには仲間がいる。

 かつてグロバストン王国の最高戦力である王の手にまで上り詰めたクルツ・ガーダループまでもが彼の仲間なのだ。危険なのは決してアルヴァンだけではない。


 それでもエリヤフには希望があった。


「取り逃がしたとはいえ君の術はアルヴァンにも確かに効果があったんだ。今回は失敗したが最高の戦力をそろえることが出来ればアルヴァンは止められる。これは本当に大きな収穫だ。マヤ君、君が無事でよかった」


 エリヤフは頭を下げるマヤの肩に手を置いた。エリヤフの手はもう震えてはいなかった。


「はい。私は必ずアルヴァンを止めます」


 マヤは力強くうなずいた。


「……お前達には本当に申し訳ないことをしてしまった」


 タルボットがおもむろに口を開いた。その顔には決して消えない悔恨の念が刻まれていた。


「私がお前達のいうとおりにしていれば部下達は死なずに済んだ……私にはもう軍人を続ける資格などない」


 エリヤフ達がやってきてからのめまぐるしい状況の変化に翻弄されていたタルボットだったが、一息ついたことで自分が取り返しのつかない過ちを犯したことをようやく実感していた。


 エリヤフ達は何一つ間違ってなどいなかった。


 あの銀髪の青年を止めるとなれば王の手はおろか女王陛下にまで御出陣を願い出なければならない。

 にもかかわらず、タルボットはエリヤフ達の必死の訴えを鼻で笑った。


 タルボットが悔やんでいるのは単に判断を誤ったからではない。


 自分が気に入らないエリヤフを貶めるために彼の言葉に耳を傾けなかったからだ。


 グロバストン王国の軍人であることはラウル・タルボットの誇りだった。だが、今となっては自分のような人間が王国の軍人であることには耐えられそうもなかった。


「タルボット中佐、私がアルヴァンに簒奪する刃を渡してしまったことはすでに説明しましたよね」


 なにも言わずにタルボットの言葉を聞いていたマヤが口を開いた。


「ああ、覚えている」


「アルヴァンを解き放ったのは私です。部下の方々が亡くなったのは私のせいでもあります」


「それは……」


 タルボットは反論しようとした。しかし、マヤはそれを遮って続けた。


「いいえ。これは私が犯した罪です。そして、自分が犯した罪は自分で背負い続けなくてはならないんです」


「マヤ君! そんな風に考えては――」


 エリヤフは口を出さずにはいられなかった。


 だが、そんな彼をカイルが手で制した。エリヤフがカイルの反応に驚いているとマヤがさらに言った。


「軍人であることからは逃れられても罪人であることからは逃れられません」


 タルボットは突然頬を張られたかのように立ち尽くした。


「……私にはこの罪を背負い続けることなどできそうもない」


 タルボットは絞り出すようにそう言った。


「ある人が私に言いました。誰だってやり直せる、と。私は罪を犯した自分のことなど信じられません。ですが、その人のことなら信じられます」


 マヤは胸を張ってそう言った。


「……誇り高きグロバストン王国の軍人がいつまでも泣き言を言っているわけにもいかないな」


 タルボットは顔を上げた。

 この罪は背負い続けなければならない。

 だが、軍人である自分には国を守るという使命がある。

 罪に押しつぶされている暇などない。

 ならば、罪を背負って前に進むしかないのだ。


「……さて、そろそろ出発するぞ。王都はまだ遠い。どこかで馬を調達してーー」


 タルボットが覚悟を決めたのを見てエリヤフが口を開いた。


「待て」


 タルボットはエリヤフに待ったをかけた。


「ここは国境沿いを流れるサレッタ川の河原だ。ここからそう遠くない場所に王国軍の砦があるだろう。砦にある王都との魔術通信回線を使えばわざわざ王都まで行く必要はない」


「それはそうだが、通信を行うには砦の責任者の許可が必要になるぞ」


「そんなものはこの私がタルボットの家名を見せびらかせばどうとでもなる」


 グロバストン王国でも指折りの名家の跡取りはあっさりとそう言った。


「協力していただけるのですね!」


 マヤが目を見開いた。


「泣き言を言うのはもう終わりだと言ったはずだ」


「まっとうな軍人のやり方とは思えんがな」


 エリヤフは口の端を吊り上げた。


「たたき上げのエリヤフ中佐は貴族のやり方がお気に召さないと見える」


 タルボットは愉快そうに言った。


「まさか。猫の手だって大歓迎だ」


 エリヤフはタルボットが自分のことを中佐と呼んだことにちゃんと気づいていた。


「高貴な血筋というものがどれほど役に立つか思い知らせてやろう」


 タルボットはそう言うとエリヤフに背を向けて歩き出した。


 三人も遅れて歩き出した。誇り高きグロバストン王国の軍人の背中を追って。


「ところで、お前に『誰だってやり直せる』と言ったのはどこの誰なんだ?」


 先頭を歩いていたタルボットが不意に振り向いてマヤに聞いた。


「あなたの大嫌いな人ですよ」


 そう答えるマヤの唇は弧を描いていた。


「…………」


 恐ろしい答えにたどり着いてしまったタルボットは救いを求めるようにカイルを見た。

 だが、カイルには無言でうなずかれてしまった。


「……なんということだ」


 タルボットは両手で顔を覆った。


「うるさい! さっさと行くぞ!」


 エリヤフは苦り切った顔でそう言った。


 芽生え始めた確かな希望を胸に、四人は歩き続けたのだった。

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