第124話 黒と白
苦痛に満ちたその叫びはヒルデに追い詰められていたエリヤフとタルボットの耳にも届いた。
「なんだ、これは……」
タルボットは何が起きているのかわからずに困惑しているようだった。
「私の仲間がやってくれたんだ!」
エリヤフが言った。
ようやく希望が見えてきた。
紅蓮の聖女は明らかにこちらをいたぶっていた。ふたりまとめて殺すことなど彼女にとっては造作もないことだったはずだ。
しかし、紅髪の少女はふたりをすぐに殺そうとはせずにぎりぎりで躱せるところを狙って炎を放ってきた。
地面を転がり、泥まみれになりながらエリヤフとタルボットは必死で逃げ回った。
紅蓮の聖女は楽しげだった。
だが、形勢は変わった。あの術はアルヴァンにも効果があるのだ。
この作戦ならばアルヴァンを止められる。エリヤフの胸に希望の灯が灯った。
その小さな灯は一瞬のうちにかき消された。
エリヤフには想像すらできないほどの激烈な怒りを滾らせた紅蓮の聖女によって。
聖女の怒りはすさまじく、祖国を守るという鋼の信念に支えられたエリヤフでさえも逃げ出さずにはいられないほどだった。
タルボットも同じ気持ちだったのだろう。気づいたときにはふたりで紅い髪の少女に背を向け、サレッタ川に向かって死にものぐるいで走っていた。
息が詰まりそうになるほどの殺気を感じたのはマヤも同じだった。
「カイルさん!」
倒れたアルヴァンを見下ろしていたカイルに向かって声を張り上げた。
術の方は途中で切り上げることになるが他に手の打ちようがない。
マヤは踵を返してエリヤフとタルボットを追った。
カイルと並んで走るさなか、マヤはアルヴァンに駆け寄ってくる紅い髪の少女と一瞬だけ目が合った。
その瞬間、マヤはここで自分が死ぬことを確信した。
足がすくみ、固く握りしめていたはずの杖が手から滑り落ちた。
紅蓮の聖女の赤い瞳から目を離すことが出来ず、マヤは立ち尽くした。
生きることを放棄したマヤに対して、聖女はなにもしなかった。
彼女は脇目も振らずにアルヴァンに向かって駆けていった。
マヤの後方で、紅蓮の聖女は倒れたアルヴァンを抱き起こしていた。
「アルヴァン様、アルヴァン様……」
彼女は縋るようにアルヴァンの名を呼んでいた。
だが、アルヴァンが返事をすることはなかった。
ようやくマヤの体がまともに動くようになった。
この隙を突いて逃げるしかない。
隣のカイルに目を向けると、彼もゆっくりとうなずいてくれた。
マヤが一歩踏み出そうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「どこへ行きますの?」
その声は弱く、悲しげだった。
だが、マヤはその声を振り払うことが出来なかった。
答えなくてはならない。
マヤの心はその考えに支配された。
それと同時にこうも感じた。
答えたら私は死ぬ。
この少女の問いには絶対に答えなければならないという思いと生物としての死への恐怖がマヤの中でせめぎ合った。
実際にはほんの一瞬のことであったが、その一瞬はマヤにはとってあまりにも長く感じられた。
結局のところ、勝ったのは生存本能の方だった。この勝負には贖罪などという思いの居場所はなかった。
この怪物から逃げ出したいという理屈抜きの感情だけがマヤを突き動かしたのだった。
マヤは走った。後ろを振り向くことなど考えもしなかった。
走っているうちにいつの間にか地面がなくなっていた。そのことに気づくと、内臓が浮き上がるような浮遊感がやってきた。
遙か下を流れる深いサレッタ川に落ちていくことなどマヤは全く恐くなかった。
あの少女から逃れられるのならば、マヤはなんでも受け入れられた。
「これはまずいですな……」
意識を失っているアルヴァンを観察すると、ローネンは真剣な顔で言った。
アルヴァンとヒルデがふたりだけでグロバストン王国軍に突っ込んでいくのを見ていたグレースが、彼にふたりの様子を見てくるよう命じたのだった。
グレースからの小言を伝えに飛んできたローネンだったが、状況は予想だにしないものだった。
ヒルデに抱えられているアルヴァンの呼吸は安定しており、脈も正常である。端から見れば眠っているようにしか見えない状態だった。
ここが戦場でなければローネンもそう判断しただろう。
だが、アルヴァンは目覚めなかった。
ヒルデが声をかけ、体を揺さぶり、軽く頬を叩いても、彼が意識を取り戻す気配はなかった。
「……お願いいたします。アルヴァン様を助けてください」
ローネンに深々と頭を下げるヒルデはいまにも壊れてしまいそうだった。
「ふむ、魔力の方にも全く乱れがない。正直言って眠っているとしか思えんな」
アルヴァンの体に手を当てて具合を見ていたジェイウォンが言った。
「あら、それはむしろ変よ。だって普段のアルヴァンちゃんって魔力に変な波があるもの」
クルツはアルヴァンの魔力には奇妙な揺らぎがあることに気づいていた。基本的には人間のものとは思えないほどに禍々しいのだが、よく観察しているとときおり禍々しさが消えてしまうことがあるのだった。
「それはワシも気づいていたが、揺らぎなどない方が正常だからな……」
「なんにしても、異常がないのであれば手の施しようがない。このまま放っておくしかないだろう」
アルヴァンがただ眠っているわけではないことは分かっていたものの、エイドレスもそう言うしかなかった。
「そんな……」
ヒルデの目からは止めどなく涙があふれた。
「ヒルデ君」
肩に手を置かれて、ヒルデは顔を上げた。
「アルヴァン君を信じよう」
グレースが言った。
「でも、わたくしのせいでアルヴァン様が……」
「アルヴァン君は自分のやりたいようにやっただけだよ。いつも通りにね」
そう言ってグレースは柔らかく微笑んだ。
「なに、心配する必要はないさ。ボクのような絶世の美女が待っているんだから、アルヴァン君もすぐに目を覚ますよ」
「……そう、ですわね。アルヴァン様がこのわたくしをほったらかしにするなんてあり得ませんわ」
ヒルデは涙をぬぐうと気丈な笑みをみせた。
「でも、あまり待たせないでくださいまし。アルヴァン様」
ヒルデは眠るアルヴァンの頬を慈しむように撫でていた。
気がついたとき、アルヴァンは湖の畔に立っていた。大きな湖の畔には古い巨木がそびえ立っていた。
「えっと、またここに来たってことは僕の体は眠っているんだよね?」
アルヴァンが聞いた。アルヴァンはこの湖にきたことがあるのを覚えていた。
「ああ。クルス島への船旅の時と同じだ。お前の体は深い眠りについている」
アルヴァンの質問に答えたのは銀色の髪を背中まで伸ばした青年だった。彼はゆったりとした青いローブを着ており、年齢はアルヴァンよりも上に見えた。彼の顔立ちは端正だったが繊細さと同時に力強さを感じさせるものだった。
「君の顔をちゃんと見るのは初めてだけど、初めましてって言った方がいいかな?」
「好きにするといい」
長い銀髪の青年は冷ややかにそう言った。
「じゃあ、一応言っておこうかな。初めまして、フィーバル」
アルヴァンは穏やかに言った。
「そうだ。私はフィーバル……ようやくそれがわかった」
フィーバルの声は苦悩に満ちていた。
「大分時間がかかったみたいだね」
アルヴァンが言った。
「……お前は初めから気づいていたんだな」
フィーバルは固く拳を握りしめていた。彼の言葉は問いかけではなかった。
「君が僕とは違うことならすぐに分かったよ」
アルヴァンはあっさりとそう言った。
「私は見失っていた自分をようやく取り戻した」
フィーバルが言った。
「そうみたいだね」
「私はあの恐るべき剣に打ち勝ったと思っていた。あの剣を封じることが出来たのだと思っていた。だが、全てはまやかしだった。打ち勝ったのはあの剣の方だった。封じられたのは私の方だったのだ……」
フィーバルは自分の両手を見下ろしながらそう言った。彼は自分自身を失ってしまったことにすら気づけ
なかったことを深く恥じていた。
「君は上手くやったんじゃないかな? この剣はまだ不完全だし」
アルヴァンは腰に差した黒い剣に目を落とした。
「そうだ。その剣はまだ解き放たれてはいない……つまり、まだやり直せるということだ」
フィーバルは自分がやってしまったことの重みに押しつぶされそうになっていた。だが、彼の中の希望が消えることはなかった。
過ちを正すため、フィーバルはアルヴァンと対峙した。
「違うよ。解き放たれていないなら、まだまだ楽しめるってことだよ」
次なる破壊に胸を躍らせて、アルヴァンは笑っていた。
湖の上を風が吹き抜けた。
古い巨木の枝が風に揺れた。
一枚の葉が枝から落ちたとき、アルヴァンが踏み込んだ。
その手には黒く光る簒奪する刃があった。
アルヴァンは邪魔な鎖を破壊するべく剣を振るった。
しかし、黒い剣を縛る鎖を断ち切ることは出来なかった。
「そんなことも出来るんだ」
アルヴァンは嬉しそうだった。その目は漆黒の剣を受け止めている剣に向けられていた。
その剣は簒奪する刃によく似た形をしていた。だが、その剣は白かった。
柄から切っ先まで全てが黒く染まっている簒奪する刃とは反対に、その剣は柄から切っ先まで全てが白く染まっていた。
「お前は忘れているのかもしれないが、この剣との付き合いは私の方が長いのだよ」
純白の剣を持ったフィーバルが言った。白い剣は本来のフィーバルが持つ清らかな魔力を発していた。
「そういえばそうだったね」
そう言いながらアルヴァンは白い剣を構えたフィーバルから距離を取った。
「遊びはもう終わりだ。その剣は返してもらう」
白い簒奪する刃を持つフィーバルが言った。その体からは悪しきものを滅する清浄な魔力があふれ出していた。
「いやだよ」
黒い簒奪する刃を持つアルヴァンが言った。その体からはどす黒く禍々しい魔力があふれ出していた。
ふたりは同時に踏み出してそれぞれがもつ白と黒の刃で相手に斬りかかった。
黒と白の激突は静かな湖を揺らした。
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