第119話 皇帝カロル・ロストム・ラグナイル
グランとパトリシアを連れて王宮に戻ったバーニスは、パトリシアの私室にある隠し扉を抜けて王宮の地下に降りた。
元は緊急時に王族が避難するための部屋だったのだが、今は家具を全て取り払い、床に大きな魔法陣を描いてあった。
「会談のことはエステバルロ准将にも伝えてあります。陛下の不在は准将が上手く誤魔化してくれます」
事務的な口調でパトリシアが告げた。
「エステバルロにはいつも世話になるな」
バーニスは会談のことを知る数少ない人間であるウィレム・エステバルロ准将に様々な面で手助けしてもらっていた。
「転移用魔法陣の準備が整いました」
グランが言った。
「よし、行くぞ」
バーニスに続いてグランとパトリシアが魔法陣の上に立った。
床の魔法陣が強い緑色の光を放つと三人の姿が地下室から消えた。
「バーニス・マルフロント・グロバストン女王陛下、ようこそお越しくださいました」
転移してきた三人を迎えたのは、グロバストン王国から遙か南に位置するロプレイジ帝国の第二皇女ルシリア・ブランディナ・ラグナイルだった。彼女は年の割に小柄ではあったが腰まで届く髪は見事な金色で、整ったその顔には社交的な笑みが浮かんでいた。
「ルシリア、イシルダからなにか言われたのだろうが、無理をしなくていいぞ」
バーニスが言った。
「本当にいいんでしょうか?」
念を押すルシリアにバーニスはうなずいてやった。
「いやー、流石はバーニスさん。うちの姉と違って話がわかりますね」
ぴしりと伸ばされていたルシリアの背筋はだらりと曲がり、社交的な笑みを浮かべていた整った顔も気だるげな感じになった。
「ロプレイジの宮殿にも慣れたでしょうからいちいち案内する必要もないと思いますが、イシルダ姉さんがうるさいので一応は付いてきてください」
ルシリアはそう言うとダラダラした感じで歩き出した。
三人はルシリアに従って転移用魔法陣が設置された部屋を出た。
「ほんと、なんでこんな面倒なことしなきゃいけないんですかね。バーニスさんとうちの兄さんでこっちの宮殿とそっちの王宮を適当に行き来して好きなように話し合えばいいじゃないですか」
皇帝の宮殿の各所に設置された隠し扉を開けて秘密の通路を歩きながら、ルシリアが不満を漏らした。
「ルシリア様が陛下を信頼しているのは存じ上げておりますが、それはあまりに不用心かと思います」
パトリシアが言った。
「パティさんは相変わらずガッチガチに固いですね。バーニスさんがうちの兄さんを押し倒すとでも思うんですか? そんなことを心配するくらいなら雷に打たれて死ぬことでも心配しているほうがよほど現実的ですよ」
ランプを持って暗い通路を歩いていたルシリアがだるそうに振り返った。
「ルシリア! 何を言い出すんだ!」
バーニスは顔を赤くしていた。
「見くびらないでください。陛下にそんな甲斐性がないことは私が一番よく存じ上げております。陛下は私よりも年上であることが信じられないほど純粋な恋愛観を持っておいでです。数年前に『男女で口づけをしたら子供が出来るのか』と真剣な顔で聞かれたときには流石の私も言葉を失いました」
パトリシアは淡々と言った。
「パティ! それは秘密だと言っただろうが!」
バーニスが声を荒げた。
「とにかく、こちらの女王陛下には心配など無用です。しかし、そちらの皇帝陛下はいかがでしょうか?」
パトリシアはバーニスを無視して言った。
「うちの兄さんですか……基本的にはバーニスさんとどっこいどっこいだと思いますが、バーニスさんほどの美人さんが相手となるとちょっと怪しいところですね」
ルシリアは考え込んだ。
「あ、あやつはそのような……」
バーニスはもじもじしていた。
「なんだと! いくら皇帝陛下といえどもこのグラン・モーランの目が黒いうちは女王陛下には指一本触れさせませんぞ!」
グランは燃えていた。
「邪魔をしないでください。甲斐性無しで純情な陛下とていずれは伴侶を見つける日が来るのですよ」
パトリシアが言った。
「グランさん、心配しなくても大丈夫ですよ。兄さんの方にもそれはそれは強固な枷がありますから」
目的の部屋にたどり着いたルシリアは音を立てないようにして扉を開けた。
「ね、姉さん、ひとりで出来るから……」
「だめよ。カロルの髪を梳かすのはお姉ちゃんの仕事なんだから」
部屋の中では鏡の前に座った青年が若い女性に髪を梳かされていた。
青年は女性からなんとか逃れようとしていたが女性の方は慣れた手つきで青年を押え込んでいた。
「ご覧ください。ロプレイジ帝国の君主にして『剣帝』の二つ名を世に轟かせるカロル・ロストム・ラグナイル皇帝陛下とわたくしルシリアの不肖の姉にして皇帝陛下の強固な枷であるイシルダ・ブランディナ・ラグナイル第一皇女殿下です」
ルシリアは慇懃無礼を絵に描いたような態度で兄と姉を示した。
「バーニス、突然呼び出してすまない。グラン隊長とパトリシアさんも来てくれて助かるよ」
来客に気づいたカロルは柔和な笑みを浮かべた。外見だけ見れば中肉中背のどこにでもいそうな感じの青年だった。
しかし、バーニスは知っている。
この穏やかな目をした覇気のない青年が世界最強の魔術師である自分を上回る力を持っていることを。
一方のイシルダはつかつかとルシリアに歩み寄ると妹の胸ぐらを掴んだ。
「ルシリア、ノックもせずに扉を開けるのは皇女としてどうかと思うわ」
イシルダの顔はルシリアとよく似ているものの、イシルダの方が大分背が高く、妹にはない気位の高さがあった。
「お客様の面前で妹の胸ぐらを掴むのも皇女としてどうかと思いますが……」
姉の迫力に気圧されながらもルシリアはなんとか言い返した。
「お客様? ああ、この女のことね」
イシルダはそこで初めて気がついたかのようにバーニス達を一瞥した。
「超絶美人なバーニスさんが兄さんと親しくしているのが気に入らないのはわかりますが、他国の君主をこの女呼ばわりするのはいくらなんでも……」
「おかしなことを言う子ね。それじゃあ私が見苦しく嫉妬しているみたいじゃない」
イシルダは笑みを浮かべていたが、ルシリアを掴んでいる手には尋常ではない力が込められていた。
「バーニスさん、本当にすみません。今はこんなにもアレな姉ですけど、兄さんさえ絡まなければ誰よりも優しくて優秀な人なんです」
ルシリアは姉に胸ぐらを掴まれたまま首を巡らせてバーニスに謝罪した。
「イシルダのことはわらわも理解しているつもりだ」
普段のイシルダの評判については聞き及んでいるバーニスは苦笑していた。
「姉さん」
カロルはイシルダの手を優しく引きはがした。
「僕らがバーニス達を招いたんだからこんな態度を取るのは良くないよ」
カロルは姉を諭した。
「……ごめんなさい」
イシルダは素直に自分の非を認めてバーニスに謝罪した。
「さてと、姉さんも正気に戻ったことですし、本題に入りましょうか」
解放されたルシリアが言った。
「そうだね。今回来てもらったのはフェイラム伯爵の件について話がしたいからなんだ」
カロルが言った。
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