もう一度殺せ

霧江サネヒサ

もう一度殺せ

 とうとう、出所する日がきた。その日は、とても寒くて雪が降っていた。先行きが見えないことを暗示するかのように。

 出所した男を出迎えたのは、人の良さそうな笑みの青年だった。黒い傘を一本は差して、もう一本はこちらに渡そうとしている。


「お久し振りです、凪さん」


 二度と会いたくないと思っていた人間は、言った。

 樫尾康介。男の運命は、彼から逃げられないようだった。

 家の地下室に、十八歳の彼の死体が転がっている様が脳内に広がる。

 十年以上前、鳴沢凪は樫尾を拐って殺した。そして、樫尾の兄も殺した。


「あなたがいてくれなきゃ、困るんですよ」


 目の前の樫尾は、少し媚びた声を出す。


「そう。僕も君がいなきゃ困るんだ。あの時から、ずっと…………」


 ふたりは懐古する——————


◆◆◆


 図書館を出ると、紺色の空が広がっていた。日が落ちるのが早い。もう秋なのだと、樫尾康介は思った。

 冷たくなった両手をポケットに入れ、家へとノロノロと足を運ぶ。肩に掛けた鞄は教科書など入っていないのに、やけに重い。

 彼は家が嫌いだった。

 別に、家族に害されたわけではない。ただ、彼は家族と比べて自分の暗さがはっきりするのが嫌だった。

 両親は結婚しているだけあって普通の人生というものを押し付けてくる人達で。兄は秀才である。

 しかし、自分ときたら得意なものなど無く、性格は暗く、見た目も良くない。

 帰宅部の癖に学校が終わっても中々帰らないのは、そういう訳だ。

 帰りたくない。

 その願いは唐突に聞き届けられ、彼は後頭部を木製バットで強打されて意識を手放すことになった。


 目覚めると、見知らぬ部屋にいた。四方がコンクリートの、冷たい印象の部屋だ。その部屋の隅、ベッドの上に樫尾はいた。

 ここが何処なのか。何故頭が痛むのか。彼には分からない。

 上半身を起こし、ベッドから降りようとした彼は気付いた。右手が、手錠でベッドと繋げられていることに。


「な……なにこれ……?」


 思わず発した言葉は震えていた。

 すると、扉が開く音がした。階段を誰かが降りてくる。

 その誰かは、見知らぬ男だった。眼鏡をかけ、長い髪を後ろで束ねた中肉中背の人物。彼はベッドの前まで来ると、樫尾に話しかけてきた。


「僕は鳴沢凪。よろしく、樫尾康介くん」

「ナキサワ……ナギ……さん……」

「君は今日から僕に飼われるんだ」


 理解出来なかった。


「な……何を……バカなことを……」

「口応えは許さない……」

「がッ!」


 腹を蹴られた。酷い痛みに涙が出た。

 続いて、殴ろうと凪の拳が振り上げられる。


「ひっ……!」


 樫尾は小さく悲鳴を上げ、恐怖に顔を歪ませた。


「あぐッ!」

「僕を怒らせないでね? 樫尾くん」


 右頬を殴られた樫尾は恐怖から発声を許されない。


「返事は?」

「は、はい……」

「そう、それでいいんだよ」


 掠れ声で答えた樫尾の頭を、凪は満足そうに撫でた。

 理由は分からないが、自分は異常者に捕まったのだと、それだけは分かった。

 その日、樫尾は痛みと恐怖で眠れなかった。



「おはよう、樫尾くん」

「お、おはようございます……」


 挨拶を無視する勇気はなかった。


「元気ないね。眠れなかったの?」

「はい……」

「ふぅん。まあ、とりあえず朝ご飯食べなよ。美味しく出来たからさ」


 彼が持っているトレイにはハムエッグやサラダが乗せてある。

 そして、彼はそれを床に叩き付けた。空虚な音を響かせ、料理は残飯のような見た目になる。

 凪は樫尾に、端がベッドに巻き付いており、周辺のみ歩けるようになる長めの鎖が付いた首輪をつけ、手錠を外した。

 手首は痛々しい色になっている。

 その後、手錠を後ろ手にかけ直した。


「召し上がれ」

「あ……の……」


 つまり、手を使わずに床に叩き付けられた料理を食えということなのだと理解した。しかし、なかなか実行出来ない。


「どうしたの? もっと食べやすくしてあげようか?」


 凪は足で料理を踏み潰そうとしている。


「だ、大丈夫です、から……」


 呼吸は、すっかり乱れている。樫尾は荒く息をしながら、床に顔を近付けた。


「はぁ……はぁ……」

「遅い」

「ぐァっ……!」


 頭を踏まれ、料理が顔の下でぐちゃぐちゃになった。

 顔がベタベタと汚れていく。


「人がせっかく用意したんだからさぁ、喜んで食べなよ」


 凪の足に力が入る。


「ぐ…………う…………」

「それ、綺麗に食べるまで次の食事はないから」


 そう言うと凪は冷たい目で、口元に笑みを浮かべ、去って行った。

 樫尾は生ゴミのようなそれを惨めに食べたのだが、床が汚れていると凪に文句を言われ、床を綺麗に舐めるまで食事は与えられなかった。


 そんな、凪に心身ともにいたぶられる日々が続いたが。

 ある日、逃げる機会が訪れた。

 どうしてか、今、自分の鎖は外されている。

 凪は外へ行った。ドアの鍵は、開いている。逃げるなら、今しかない。

 樫尾はそろそろと階段を登った。ドアへ近付き、ドアノブに手をかける。

 そして一歩外へ踏み出すと、ドアの陰から出た凪に渾身の力で顔を殴られた。


「うあァッ!」

「なに、逃げようとしてんの?」


 髪を掴まれ、引き摺られて部屋の中に戻される。


「痛ッ……ごめんなさい! ごめんなさいッ!」

「僕を裏切ったの?」

「あ、ああ……ごめんなさい! もう二度としませんッ! だから……ッ! ゆるし——」

「うるさい」

「がッ……は……あ……」


 凪の指がギリギリと首を締め上げた。


「ゆるさないよ」

「嫌…………死、にたく……ない…………」


 みっともなく泣きながら言う。

 そして、意外なことに首から凪の手が離れた。


「殺されたくないなら、ちゃんと僕の言うこと聞いてよ」

「はい……」


 何故か、凪の言葉は哀願するような響きだった。



「目が……変だ……」


 昨日、凪に殴られた右目がおかしい。焦点がズレている。

 足に繋がれた鎖をズルズル引き摺り、鏡の前へ行く。


「そんな……」


 左目は、正面を見ている。右目は、外へ寄っていた。いわゆる、外斜視である。

 数時間後、地下室を訪れた凪は樫尾の斜視に気付くと狼狽した。


「僕のせいだよね。ごめんね……」


 凪は優しく樫尾の頬を撫でる。


「俺が勝手なことをしたから……いけないんです……」


 どういう訳か、凪に優しく触られると嬉しい。樫尾の精神は壊れかけている。


「樫尾くん……」


 凪に抱き締められた。

「あ、あの…………?」


 何故、こんなことをされるのか理解出来なかった。


「僕はね、君のことが好きなんだ」

「え……?」

「ごめんね、樫尾くん」


 何かが氷解した気がした。

 人に好かれたのは初めてのことだった。だからだろう、彼の好意を嬉しく思うのは。

 樫尾は凪の告白で、彼が自分を殴りたいのと同じくらい殴りたくないのだと理解した。そう、一方的な理解をした。

 問題は、彼が自分を殺しかねないこと。彼の狂暴性を何とかしなくてはならない。そのためには、彼をもっと理解しなくては。


「凪さんのこと、もっと教えてください」


 樫尾との対話するようになってから、段々と凪は真人間のようになっていった。

 食事を普通に出すようになり、甲斐甲斐しく風呂の世話をするようになり、愛を囁くようにもなったのである。

 樫尾は、そんな凪に依存的な感情を抱くようになっていく。

 この人は、自分がいないとダメになってしまう。そんな彼が愛しい。

 ストックホルム・シンドロームだと、第三者は笑うかもしれないが、樫尾は真剣に凪を愛し始めたと自分では認識している。

 ふたりの蜜月が続いた、ある日。


「ん…………」


 風を感じて目を覚ますと、地上へのドアが開いていた。


「凪さん……?」


 彼の姿は見当たらない。


「あ……」


 足枷が、外れていた。

 どういうことだろう。また、自分を試しているのだろうか。


「凪さん、いないんですか?」


 階段をおそるおそる登るが、返事はない。

 ドアを出て直ぐの地面に自分の荷物と、重しを乗せた手紙があった。

 樫尾くんへ、と書いてある。


『二週間も僕に付き合わせて悪かったね。君が出て行くのを見たくないから、僕がいない間に帰ってほしい。本当にすまないことをしたと思ってる。君が死ねと言うなら僕は死ぬつもりだ。この手紙の余白にでも書いて置いておくといい。さようなら、樫尾くん。』


 そう、書いてあった。



 鳴沢凪は家に帰りたくなかった。

 家に帰れば居たはずの人が、今日からはいないのだ。

 足取りは重く、表情は暗く。闇の中を歩いた。彼がいない自宅など廃墟同然だと思った。地下室に誰かが居たことなど、自分の妄想だったのかもしれない。

 彼からの手紙はあるだろうか。

 ドアの前には、無い。

 地下室に入ると、灯りが着いていた。


「な……なんで……」

「あ……お帰りなさい……」


 そこには、樫尾康介がいた。


「君……帰らなかったのか……?」

「帰りましたよ。親に怒られました。それで……まあ、喧嘩して……家出して来ました」


 よく地下室を見渡すと、彼の荷物が沢山ある。


「それで、 あの……泊めてくれませんか? ここから学校通いたいなぁ、とか……迷惑ですか……?」

「ダメだよ、そんなの。ここは、だって、倉庫みたいなものだし。実は、その……家の方に空いてる部屋があるんだ……」

「あ、ありがとうございます……」


 お互い、照れくさそうに笑った。

 このおぞましい過去が、十八歳の樫尾康介が殺されかけている様子である。

 話は、彼らが同棲のようなことを始めてから二日目へ。

 朝、何か食べてみたいものはあるかと訊かれ、樫尾康介はテレビで見たシュラスコを食べてみたいと答えた。


「凪さん……これ……!」


 まさか、その日の晩ご飯に出て来るとは。


「樫尾くんが食べたいって言ってたシュラスコだよ。鶏と豚と牛ね」


 肉を指差して説明する凪。


「それから白米。日本人はお米だよね。あと適当にサラダ作ったよ」

「美味しそう……」

「樫尾くんに喜んでもらいたくて」

「凄く嬉しいです!」

「やっぱり食べ盛りの男の子だねぇ」

「着替えてきます!」


 樫尾はバタバタと二階の自室へ走った。

 少し前に知ったのだが、鳴沢凪の職業はシェフである。自宅からバスで二十分ほどのレストランで働いている。

 実は、そのバスで毎朝乗り合わせる樫尾を好きになり監禁したり怪我をさせたりしたのだが、状況は変わってきていた。

 樫尾は、孤独な人間だった。だから、結果的に凪の暴力的な愛を受け入れてしまったのである。

 そのまま受け入れたのではないが。彼は凪を諭せると思っている。

 しかし、恋人同士かというと微妙なところである。同棲と言えば聞こえはいいが、ただの家主と居候だ。キスもしなければ、寝もしない。

 正直なところ、お互い相手に何を求めたらいいのかよく分かっていないのだった。

 とりあえず、今は幸せと肉を噛み締めるふたりであった。

 樫尾が願い、凪が叶える日々の中で、樫尾が狂い始めていたことに、凪は気付いていない。



「樫尾くんが家に来て、今日で一週間だね」

「そうですね」


 樫尾が家出先から通学するようになってから、七日が過ぎようとしている。


「家族と連絡は?」

「携帯、喧嘩した勢いで川に投げ捨てちゃったんです。電話番号は覚えてません」

「あ、そうなんだ」

「……でも、もう帰りますから」

「そんなの、嫌だ」

「え?」


 凪は時々、子供のようになる。


「僕とずっと一緒にいてよ」

「でも、迷惑なんじゃ……」

「そんなことない! 君がここにいてくれるだけで、僕は幸せなんだ」

「あの、俺、バイトします。それで、食費とか——」

「いいよ、そんなの! 一緒にいられる時間が減るじゃないか!」

「でもね、凪さん。ちゃんと将来のこと、考えないといけないんです。その、俺……だって、凪さんとずっと一緒にいたいんです」

「本当に?」

「はい」

「……そう」


 凪が照れているらしと、樫尾には分かった。最近では、すっかりこの狂人が可愛らしく見える。けれど、以前の自分は泥水を飲んで生きていて、今は海水を飲んでいるくらいの違いなのだろうと自嘲した。そう、樫尾は本当は真水を、いや、もっと良いものを飲みたいのだ。

 それは、凪の生き血で作られるもの。

 樫尾は、凪が好きだ。今まで得られなかったものをくれたから。

 だから、いらないものを消すことだってしてくれるに違いない。そう思って、樫尾は凪に乞う。


「兄が、嫌いなんです」

「え?」

「殺して、くれませんか?」

「あ………………」


 凪は理解した。

 樫尾の死体は、地下室に転がっている。どのタイミングかは分からないが、暴力を受けるうちに彼は死んだのだ。

 今ここにいるのは、別人のようになった樫尾康介。凪を、便利な駒として利用しようとする者。

 意識的なのか無意識的なのか、凪には分からなかったが、樫尾に必要とされていることだけは確かだ。

 それは、蜜の味がした。


「君の望みは、僕がなんでも叶えてあげる」


 殺人を犯す前日の夜、凪は樫尾に言われるままに、彼を抱いた。


「凪さん……っ……愛してます…………ああっ」

「んっ……僕も愛してるよ……」


 凪の肉棒が、樫尾のナカを犯す。

 ベッドの上で睦まじく手を繋いでいるふたりを、得も言われぬ快感が侵す。

 何度も深く口付けを交わし、銀糸がふたりを繋いだ。


「こんなに気持ち良くて気分が良いのは、生まれて初めてです。もっと突いてぇっ」

「僕もだよ。いっぱい気持ち良くしてあげるからね、樫尾くん」

「凪さ……ああっ! イクっ……!」

「はぁ、あ……僕もイキそう」


 ふたりは、同時に精を吐き出した。

 どぷ、と樫尾のナカに凪の精液が広がる。


「ん、ナカ熱い……はぁ、凪さんのいっぱい出てる……凪さんは俺のものですよね?」

「うん。そうだよ、樫尾くん。もっと僕を使ってね」


 お互いのサディスティックな欲望に火を着けて、夜は更けていった。



◆◆◆



 時は、現在に戻る。


「また、凪さんに頼みがあるんです。邪魔なんです。俺の両親、殺してくれませんか?」


 樫尾は懇願する。

 あの地下室では、凪もまた樫尾に殺されていた。狂愛は鳴りを潜め、真心や良心や愛が芽生えたのだ。しかし、もう一度殺されてしまった。


「分かったよ。樫尾くんのためなら僕は…………」

「やっぱり凪さんだけが俺の味方だ。愛してますよ」


 彼の声は、どこまでも甘い色をしていた。

 もう二度と、会えなくなるであろう樫尾康介のことを、凪は目に焼き付けようと思った。

 けれど、もしも、もう一度、彼を殺せたら。そんなことをさせないでくれと、諭せたら。

 殺された鳴沢凪の残滓が訴える。

 しかし、彼の口から出た言葉は——————


「僕も愛してるよ」

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