【番外編】ヤツェクの花ー1

「結婚? 私が?」


珍しくワドヌイに呼び出されたと思ったら、いきなりそんな話だった。

『聖なる頂』に一番近いこの神殿で、宰相だったヤツェクがヤクブと名を改めて働くようになって、二年が過ぎた頃だった。


「人違いではありませんか?」


思わず確認したが、


「間違いではありません。あなたへの縁談ですよ、ヤクブさん」


ワドヌイではなく、隣に座っていたカシミシュと名乗る男が答えた。どうやらこの男が持ち込んだ縁談らしい。


「どうですか、ヤクブさん。嬉しいでしょう」


ヤツェクは、その恩着せがましい笑顔に向かってキッパリと告げた。


「いえ、お断りします」

「な……!」

「まあまあ、ヤクブ。お茶でも飲みながら、まずは話を聞きましょう」


ワドヌイが取りなすように勧めたので、ヤツェクは仕方なく、目の前のカップを手にした。

人払いをした応接室は、ヤツェクとワドヌイ、そしてカシミシュの三人だけだ。


「花茶ですね」

「ええ、珍しくもないものですが」

「いえ、美味しいです」


ひとくち飲むと、甘味と独特な風味が口の中で広がる。山の民が好む花のお茶だ。

ここにきた頃は苦手だったが、今は好んで飲んでいる。


「あなたにはもったいないくらいの話ですよ、ヤクブさん」


お茶を飲み干したカシミシュは、しつこく食い下がった。


「どんないい話でもお受けしません。下働きとは言え、私は神殿に仕える身です」


冠雪が溶ける災害に見舞われたこの町も、すっかり落ち着きを取り戻した。

事情を知らない山の民は、ヤツェクを勤勉な神殿の下働きと思っている。


——このままここで、祈りを捧げて生きていけたら。


ヤツェクが願うのはそれだけだ。

なのに、カシミシュは続ける。


「さすが謙虚でいらっしゃる。でもね、話だけでも聞いてくださいよ。これはあのヘアマン家から持ち込まれた話なのですよ」

「ヘアマン家?」


ヘアマン家といえば、フレグの町で一番の金持ちだ。


——そんな家がなぜ自分に?


ヤツェクの疑問を読んだかのように、カシミシュは、光った額を近付けた。


「実は、うちのお嬢様がヤクブさんを見初めたのです。ヘアマン様はそんなお嬢様の望みを叶えてあげたいと思ってるというわけでして。町一番の美しさと言われるエッダ様のことは、ご存知ですよね」

「いや、知らなーー」

「娘婿となるヤクブさんには、それなりの地位が用意されます。跡継ぎはエッダ様のお兄様なので、ヤクブさんはその補佐といったところでしょうか。持参金もつけるそうです。あなたは身ひとつでこの話に乗ればいいんですよ。もちろんすぐに結婚というわけではありません。そうですね、旦那様は式は数年後にしたいと言っています」


確かに、悪い話ではないのだろう。だが、ヤツェクの気持ちは変わらなかった。


「私は一生、誰とも結婚するつもりはありません。どうぞお引き取りください」

「急ぐ話ではありません。ゆっくり考えてください」

「いくら考えても——」

「そろそろ失礼します。次の用事がありますので」


それでは、と最後までこちらの話を聞かず、カシミシュは神殿を出て行った。

ワドヌイと二人きりになったヤツェクは、げんなりして言った。


「強引な方ですね……ワドヌイ様の方からお断りしていただけませんか」

「うむ……そうすぐに結論を出さずともよいでのは?」

「ワドヌイ様?」


ヤツェクは呆然とした。ワドヌイまでそんなことを言うなんて。


「私がこの神殿に骨を埋める覚悟であることは、ワドヌイ様もご存じでしょう!」

「もちろんです。ですが、ヤツェク、この町の娘と結婚すれば、お前にはもう叛意はないと中央に知らしめることはできますよ」

「叛意だなんて……そんなつもり元からありません」


ワドヌイは頷いた。


「ヤツェクがこの二年、陰日向なく働いていることは私が一番よく知っています。だからこそ」


ワドヌイは立ち上がって、ヤツェクの肩に手を置いた。


「あなたの才覚を埋もれさせるのは勿体無いと、常々思っていました。ヘアマン家に行けば、少なくとも下働き以上のことはできます」

「才覚だなんて、そんなもの」

「カシミシュの言う通り、急ぐ話ではありません。どうですか、考えるだけでも」


ワドヌイにそこまで言われると、ヤツェクは頷かざるをえなかった。


「わかりました。しかし、それでも気持ちが変わらないときはお断りしてくださいますか」

「約束しましょう」


そう言い残して立ち去るワドヌイを、ヤツェクは苦い気持ちで見送った。


          ‡


そんなことをがあったせいだろうか。

翌日。

山小屋の修復を手伝っていたときのことだ。


「わあっ!」

「おい! ヤクブ!」

「ぐっ!」


足を滑らせたヤツェクは、担いでいた木材の下敷きになった。


「大丈夫か!」

「ああ……すまない」


ヤツェクは急いで立ち上がろうとした。

が、その瞬間。


「つっ……」


足首に激痛が走った。


「どうした!」


一番年上のパウルが、ヤツェクの足元に屈んで様子を見る。


「当たりどころが悪かったな。もしかして折れてるかもしれん」

「いや、そんな……大丈夫です」

「無理すんな。腫れがひどい。もう帰れ。しばらく休んでいいぞ」


他の者たちも、口々に言う。


「ああ、たまには休め」

「ずっと働き続けだろ、いい機会じゃないか」

「神殿には知らせてやるから、家へ戻れ」


家と呼ぶには小さな神殿の離れに、ヤツェクは住んでいる。

寝るときくらいしか立ち寄らない場所だが、そんな事情なのでその日は明るいうちから戻ることになった。




肩を貸して送ってくれたハンクは、数日間の食料まで用意してくれた。


「じゃあな、ヤクブ、パンと果物はここに置いておくから。何かあったら遠慮なく頼れよ」

「何から何まで、すまないな」

「たまには甘えろってことだ」


ヤツェクは寝台に横になったまま、ハンクを見送った。

あとは寝るだけだ。

しかし。


「……参ったな」


そう簡単には眠れない。

とにかく働いて、何もないときは神殿で祈る。

そんな日々の繰り返しだったから、こんなふうに天井を見つめるのは久しぶりだった。


——ああ、これだから嫌なんだ。


時間があると、余計なことを考える。

今となってはどうしようもないことが、息苦しいくらい、生々しくよみがえる。若すぎる宰相として宮廷で仕えた日々。後悔だらけの日々。もう少し早く行動していれば。もう少し、勇気を出していれば。もう少し、声を大きくしていれば。

もう少し、あとちょっと。

せめて。あのとき、あのとき、あのとき、あのとき。


「……クブ……ヤクブ?」


自分を呼ぶ声に目を覚ましたヤツェクは、いつの間にかうとうとしていたことに気づいた。

外の明るさに、そんなに時間が経っていないことがわかる。


「大丈夫?」


心配した誰かが来てくれたのだろう。


「あ、はい、痛っ」


返事と同時に起きあがろうとしたヤツェクは、痛みに顔をしかめた。


「痛いの?」


知らない声だった。


「なにか飲む?」


顔を上げれば、長い髪をおさげに編んだ少女がそこにいた。

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