55、悪魔なんてその辺にいますよ

わたくしはどこも怪我もなく、不思議なことに、それほど弱ってもいませんでした。


「エルヴィラ様の周りだけ、ゆっくりと時間が流れていたかのような状態です」


公爵家に昔から仕えてくれている初老の医師が、そう言いました。


「エルヴィラ! 無事でよかった」

「お父様! お母様!」


キエヌ公国から帰ってきたお父様とお母様は、話を聞いて、泣きながらわたくしを抱きしめてくださいました。


「ルードルフ、おい、ちょっと」


リシャルドお兄様がそう言って、ルードルフ様をどこかに連れてき、戻ってきたときはルードルフ様の頬が腫れていたこともありました。

一瞬、騒然となりかけたのですが、ルードルフ様自身が、


「むしろ足りないくらいだ」


と不問にされたので、それ以上、誰も何も言いませんでした。



お父様とお母様が戻ったこともあり、わたくしはしばらく生家で休養を取ることになりました。

もちろん、ルードルフ様も一緒です。

ルードルフ様やお父様、そしてリシャルドお兄様は、毎日遅くまで宮殿で話し合いを続けておりました。



怪我はなかったとはいえ、わたくしはほぼ寝台の上で過ごしておりました。遅く帰るルードルフ様とは、眠る前しかお話できる時間がありません。ですから、どんな小さな音も聞き逃さないようにして出迎え、毎日少しでもお話できるようにしていました。

今夜もそんなふうに、ルードルフ様をお迎えします。


「おかえりなさいませ、ルードルフ様」

「先に休んでいてよかったのに」

「お会いしたかったのです」

「嬉しいけど、無理はせずにね」

「してませんわ」


お茶の用意をした侍女を下がらせ、ルードルフ様はおもむろに仰いました。わたくしは背筋を伸ばします。そろそろ重要な結論が、次々に決まる頃です。


「ハスキーヴィ伯爵は、領地を取り上げられ、爵位返上の上、収監されるそうだ。かなりの額を横領していたよ。それから、アレキサンデル殿とナタリア殿は……」


ルードルフ様は言いよどみましたが、わたくしが目で先をお願いしたので、続けてくださいました。


「……処刑を求める声が多かったのだが、なんとか幽閉にとどまった」


わたくしは細く、長い、息を吐きました。

ルードルフ様はわたくしをいたわるように見つめています。


「アレキサンデル殿の状態は悪化の一方でね。もう、ほぼ正気を保っていない。それもあって、なんとか幽閉で納まった。彼は今も、彼の頭の中だけにある国で、王として生きている」


もしかして、アレキサンデル様は遠い昔からずっと、その王国で過ごしていたのかもしれません。

わたくしは、涙を流さないようにゆっくりと瞬きを繰り返しました。


「ナタリア様は……」


わたくしの赤くなった目に気付かない振りをして、ルードルフ様は頷きます。


「同じく、幽閉された。燃えるような真っ赤なドレスを着て、毅然と歩いて行ったのは見事だったよ」


ルードルフ様はそこで、一口お茶を飲みました。


「そして、財産をすべて取り上げられて追放される予定のヤツェク殿だが」

「はい」

「本人の強い希望が認められ、どこかの神殿に預けられることになる。残りの人生、贖罪の祈りを捧げることに使いたいそうだ……主さえ間違えなかったら、いい臣下だっただろうに」


わたくしはついに、睫毛に留められなかった涙をこぼしてしまいました。『聖なる頂き』で見たナタリア様の祈りを思い出してしまったのです。

ルードルフ様が隣に来て、そっと肩を貸してくださいます。


「それぞれ極刑を免れたのは、エルヴィラの口添えのおかげだ。あれがなければ、もっと重い刑になっていただろう」

「……」


わたくしはただ首を振りました。しばらくは言葉が出ず、涙をハンカチで抑えました。


        ‡


その後、さらにいろいろなことが決まっていきました。

トゥルク王国は、王国の体勢はとってあるものの、ゾマー帝国の領邦になりました。パトリック王弟殿下が形だけの王となり、わたくしのお父様が新しい宰相になります。

その決定は、貴族だけでなく、山の民を初めとする庶民からの支持も多かったとルードルフ様は仰いました。


「聖女様の加護をいただくためにも、という意見が多く、そんなに揉めず決まったよ」


実際、この体制が決まってから、不思議なことが次々起こっているそうです。


「枯れた湖に水が戻ったそうだよ」

「まあ」

「それと、『聖なる頂き』だが」

「はい」


わたくしは眉を寄せました。

冠雪の雪解け水でふもとに洪水が起きたそうで、心配していたのです。


「調べたところ、人や家畜に洪水による被害はなかったそうだ」

「そうでしたか!」

「その前から牧草が枯れていたので、皆いつもと違う場所にいた。それが幸いしたそうだ」


わたくしは、フレグの町の風景を思い出しました。

牧草が枯れ、家畜が痩せたことが今の無事につながるとは、わからないものです。


「その牧草も、徐々に生えてきたとか。どこの神殿預りになるか決まってなかったヤツェク殿は、あの山の神殿に預けられ、復興作業に手を貸すそうだ。ワドヌイ殿も認めている」

「よかったですわ……」

「神殿もこれからが大変だが、ワドヌイ殿を中心に、民に寄り添った新しい体制が少しずつ動き出している。今までの体制は崩されていくだろう。なにせ、元大神官があの通りだからな」

「はい」


          ‡


その大神官様とは、最後に鉄格子越しにお話することができました。大神官様はロベルトと一緒に逃げようとしたところを、帝国の騎士にあっけなく捕まったそうです。


宮殿の外れに、その牢屋はありました。

一見すると小さな建物ですが、地下に広い造りになっています。

鎖に繋がれ、手足の自由を奪われた大神官様は、それでもいつも通りわたくしに笑いかけました。


「これはこれは聖女様」


ルードルフ様や、何人もの騎士たちに守られながら、わたくしは問いかけました。


「一つだけ聞きたいことがあって、来ました」

「はいはい、なんでしょうか」

「大神官様は、なぜ、嘘をついたのですか?」

「嘘?」

「わたくしの百合が偽物だと仰ったことです。そもそもの始まりはアレキサンデル様だったのかもしれませんが、大神官様が手を貸さなければこのようなことにならなかったはずです」


大神官様は、なんだそんなことかと笑いました。


「別に、その方が楽に生きられると思ったからですよ。あんな扱いやすい王はなかなかいないでしょう。そして、王を扱うためにはあなたは邪魔だった。だから嘘をついた。それだけです」


わたくしは思わず眉を寄せました。


「もう、何もかも持っていたでしょうに、なぜ、まだ欲しがったのですか」


大神官様は、悪びれず言います。


「わかってませんね。努力してきたからこそ、それらを持てるようになったんです。何もしなかったら、ワドヌイたちのような、祈るだけのつまらない生活です」

「祈るだけの生活、素晴らしいと思います」

「おめでたいですね」


大神官様は、少しだけこちらに近づきました。


「そうですな、私たちの努力を一つだけ教えて上げましょう」


じゃらり、と重い鎖の音が響きます。騎士たちに緊張が走ります。


「帝国の聖女様なら、『悪魔トイフェル』のことを知っているでしょう?」


わたくしは頷きました。ゾマー帝国の神殿で教わった概念です。


「ええ。でもトゥルク王国にはありませんよね?」


すると、大神官様は驚くべきことを言いました。


「あったけど、消したのですよ。何代か前の大神官が」

「消した?」

「『悪魔トイフェル』なんてものがあると、みんな怖がって聖女を強く求めるでしょう。ですから『悪魔トイフェル』なんて存在しないと、ちょっとした薬を使って当時の聖女様に言わせたのです」

「薬? なんてことを……」


罪深さにわたくしは慄きました。


「神殿の権威のためです。仕方ありません」

「聖女様はどうなったのですか?」

「さあ。罪の意識に苦しんだと聞いてますが」


わたくしは唇を噛みしめました。


「……あなた方のほうが悪魔ではないですか。わたくしにはそう見えます」


大神官様は、それを聞くと余計に楽しそうに言いました。


「馬鹿ですね、悪魔なんてその辺にいますよ、わざわざ表明するゾマー帝国か、胸の内に飼っているトゥルク王国か、それだけの違いです」


大神官様の高笑いが、牢屋に響きます。


          ‡


重い気持ちで牢屋を出ると、不思議なことに、それまで晴れていた空に暗雲が立ち込めました。

ゴロゴロゴロと、雨も降っていないのに、雷の音が近付いてきます。

騎士たちが空を見上げます。


「雷?」

「突然だな」

「エルヴィラ、こっちへ」


ルードルフ様がわたくしを抱き止めます。わたくしはハッとしました。


「ルードルフ様、みなさま、なるべくここから急いで離れましょう」


嫌な予感がしたのです。

わたくしの予想通りなら。

もしかして。

ルードルフ様がすぐに指示を出します。


「わかった、みんな急げ!」


理由も聞かず、みんな、移動します。

ゴロゴロゴロと雷の音は近づいてきます。

雨は降っておりません。

わたくしは、先ほどの大神官様との会話で思い当たることが一つだけ、ありました。

わたくしが夢で見たあの聖女様は、もしかして、薬を飲まされた聖女様ではないでしょうか。

そう思って、できるだけ距離をとった途端。


「きゃあ!」

「エルヴィラ、気をつけて!」


ガラガラガラガーーーン!!!


天を裂くような、激しい雷の音がしました。誰もが一瞬、身をすくめます。そして、すぐに異変に気が付きました。


「焦げ臭い?」

「どっかに落ちたのか!」

「おい、まさか」


見ずともわかりました。

雷は、牢屋に落ち、あたり一帯を燃え尽くしました。


大神官様は、そのようにして罰を受けました。


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