50、祈ってください

「陛下、大丈夫ですかっ!」


見ると、右手の平が、すっぱりと刃物のようなもので切れていた。

血がポタポタと落ちる。

慌てて確認するが、頑丈な木と、鉄の取っ手でできている扉のどこにも刃物などなかった。


「触ってみろ」

「……はい」


アレキサンデルは散々、扉に触っただろう兵士に命令した。同じことだった。皆、扉に手を触れると、


「痛いっ!」

「なんだこれは?」


同じ結果になった。


「ダメです、開きません……これ以上は」


ロベルトを含め、その場にいた全員で試したが、ダメだった。

扉自体、鍵もかけていないのに、ピクリとも動かなかった。

床に血溜まりができた。


「陛下、どうしましょう」


答えのわからないことを聞かれ、アレキサンデルは叫んだ。


「ロベルトッ!」

「はい」


最近のアレキサンデルのそばに控えているのはヤツェクではなく、ロベルトだった。

アレキサンデルは、苛立ちと嗜虐性を合わせた顔をして、命令した。


「ここにいる全員、地下で話を聞け……じっくりとな」

「地下ですか。はい。皆さん、こっちへ」


ロベルトは、不安そうな顔をする人々を連れて移動した。

もちろん話というのは嘘で、秘密を知ったものをひとまず地下に閉じ込め、必要なら始末しろという意味だった。

ヤツェクがためらう汚れ仕事も、ロベルトは平気だった。そこが重宝した。


「しかし、どうしたものだ」

 

一人になったアレキサンデルは、すぐそこにいるエルヴィラを思って、苛立った。


「せっかく大神官に高い報酬を払ったのに」


エルヴィラが倒れた原因は、あのとき大神官が灯し替えた蝋燭だった。

芯に、とある植物の抽出液が染み込ませてある。

熱することによって、ごく近くにいるものがその成分を吸い込む仕組みになっていた。

芯のどの位置に染み込ませるかも考えられており、ナタリアが祈っているときは何もなく、エルヴィラが祈り出したら蔓延するように調節されていた。


ナタリアが一生懸命練習したいにしえの祈りは、単なる時計がわりだったのだ。


さらに大神官は念のため、床に落ちた汗を拭くふりして、抽出液をさらに布で押し広げておいた。

エルヴィラの祈りの姿勢は、よく知っている。

膝を付く部分だけでよかった。

そうして眠ったエルヴィラは、時間が経てば起きるはずだった。


「これも、もう使えるはずだった」


アレキサンデルは、懐に入れていた、小さな瓶を取り出して眺めた。

中にはとろりとした液体が入っている。大神官から渡されたものだ。


——エルヴィラ様が目を覚ましたら、この薬を飲ませてください。


大神官はそう言った。

薬を飲んだ後、しばらくはこちらの言いなりになるはずだった。


——この薬はこれだけでは効果はありません。あの蝋燭に染み込ませた成分で眠らせた後でなければいけないのです。


そのために、あんなめんどくさいことをしたのだ。

薬の効果は一定時間だというが、それで充分だった。

アレキサンデルはこの薬で、エルヴィラ自らに帝国に帰らないと宣言させるつもりだった。

国民の前で。

後から帝国が抗議しても、大勢が証人だ。

言質を取って、返さないと言い張るつもりだった。

ロベルトの手配で、傭兵も増やしている。


それなのに、とアレキサンデルは触れることのできない扉の前で考える。


肝心のエルヴィラに近づけないとはどういうことだ。


——このまま起きなければどうなる?


アレキサンデルは背中に嫌な汗をかいたが、


「すぐに起きるさ」


と、その場を去った。

すぐになにも知らない兵士が、新しくその塔の番人に選ばれた。



          ‡



ゾマー帝国では、まだ、エルヴィラが倒れたことは伝わっていなかった。


エルヴィラ付きの侍女たちは皆、自分たちの女主人の帰りを待ち遠しく思っていたが、それだけだった。


それなのに。

ある日、ローゼマリーは、突然、神殿に今すぐに行かなくてはいけない気がしたのだ。


「ローゼマリー、どうしたのですか?」


それまで一緒に刺繍をしていたローゼマリーが急に立ち上がったものだから、クラッセン伯爵夫人は驚いた。


「クラッセン伯爵夫人、神殿に行きましょう」

「神殿? 何をしにですか?」


ローゼマリーはもどかしそうに告げた。


「もちろん祈るのです!」

「今から? なぜ?」

「なぜだか、わからないのですが、どうしても今、エルヴィラ様のために祈らなくてはならない気がするのです! 行きましょう! 伯爵夫人!」


まったく理由はわからなかったが、女主人の名前を出されては、クラッセン伯爵夫人も止められなかった。

ローゼマリーは最低限の供をつけて、神殿に向かった。

話を聞いたエリックは、急な訪問を怒りもせず、突飛な話を笑いもせず、ローゼマリーの願いを聞いた。


「気の済むまで祈ってください。その衝動を止める権利は誰にもありません」

「ありがとうございます!」


ローゼマリーを見送りながら、エリックは、『乙女の百合』の鉢のことを思い浮かべて、呟いた。


「……その祈りこそが、我が国の聖女様に必要なことなのかもしれません」


神殿の温室に置いてあった『乙女の百合』が、昨日、一斉に枯れてしまったのだ。

もちろん、そのことは、エリック以外、まだ誰も知らない。


          ‡


帝国の『乙女の百合』が枯れたことをルードルフは、エリックからの早文で知った。


——聖女様にお変わりないでしょうか。


まだこちらの状況をしらないこの一文に、なんと答えていいのか。

ルードルフは机の上で、思わず手紙を握りしめた。


「待っててくれ……」

「同感です」


ルードルフの呟きにクリストフが暗い目で頷いた。

クリストフだけではない。この国にいるゾマー帝国の者は皆、表情という表情が抜け落ち、体だけ動く死人のようになっていた。

と、別の知らせがまた届いた。

クリストフはそれを確かめて言った。


「キエヌ公国からも準備ができたと連絡がありました」


ルードルフは、よし、と頷いた。


「時間だ」


ルードルフは剣を手に部屋を出た。


 

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