40、残された方は、そういうわけにはいかないさ
ヤンと別れてからユゼフは、もう一度荷車に戻って、いくつかの革袋を胸元に隠した。
それから、今度は迷わないように注意深く、厨房の裏を通り、洗濯場の脇を抜け、厩舎を通り過ぎた。
何人かの使用人とすれ違ったが、みんな準備に忙しく、ユゼフのことなど気にしない。
使用人の姿が見えなくなるほど奥に進んだユゼフは、ようやく、頑丈な石でできた小屋を見つけることはできた。
「情報屋の言う通りだったか」
街で買った情報だったので、不安はあったが、まずは大丈夫なようだった。
ユゼフは注意深く、その小屋に近付いた。
扉の前に、男が一人、つまらなそうに立っていた。
男はユゼフと同じような服を着ていた。
男が一人でいることに、ユゼフは内心ほっとした。
今日のような日に、人手は割かないだろうと思っていたが、二人なら説得に時間がかかる。三人なら、誰かが冷静になってしまう。
ユゼフはごく自然に男の元に歩いた。
「誰だ?」
男は眉間にシワを寄せる。
ユゼフは呑気な口調で言った。
「おう、差し入れだ。聖女様のご慈悲だとさ、ここで飲むか?」
「聖女様?」
「ああ、ほら」
ユゼフは胸元から、革袋を出した。チャプン、と中のワインが揺れる。
「上物だぜ? 一人にひとつ、支給されたんだ。さすが庶民出身の聖女様だなってみんなと話していたんだが、いらないんなら仕方ない」
「待て待て待て、俺のだ」
男は奪うように、革袋を受け取った。
「おい、破れているじゃないか」
わずかに上部が破れており、そこからワインが滴っていた。
「袋が古かったのかもな」
「もったいない」
男はためらいなく、袋を開けてワインを飲んだ。ごくごくごく、と喉の鳴る音がする。
ほぼ一気に飲み干し、満足そうに口を離した。
「うまい! こんな上物は初めてだ」
「だろうな。俺のもやろうか?」
「いいのか?」
「ああ、酒は飲めないんだ」
「へっへ、つまらない男だな」
男は笑って、手を伸ばし、そのまま。
「あれ……?」
前のめりに倒れた。
「お……い、なん……これ……」
ユゼフは男を観察する。男はすぐに眠ってしまった。軽くいびきの音がする。
「すまないな」
ユゼフは男の懐から鍵の束を取り、そこの扉を開けた。
小屋が外から見て大きくないのは、地下に広がっているからだ。
石をそのまま繰り抜いたかのような階段を下りると、その先に牢屋があった。ユゼフは思わず駆け寄った。
「アドリアンか?」
鉄格子の向こうに、老人が横たわっていた。怯えた目を向ける。ユゼフは、もう一度聞いた。
「ノヴィの店のアドリアン爺さんだろ?」
「そうだが、あなたは……」
「説明している時間はないんだ。手短に答えてくれ。なぜこんなところに入れられている? 何か罪を犯したか?」
アドリアンは首を振った。声が出にくいようだ。
「悪いことをしてないのに、ここに入れられたんだな?」
アドリアンはしゃがれた声で答えた。
「そうだ。仕事を……しろと」
ユゼフはやはり、と思った。
わざわざこんなところに閉じ込めて、無理やりさせるような、人に言えない仕事を、宝飾職人にさせているのだ。
「聖女に関わることか?」
アドリアンは、ゆっくりと頷いた。
ユゼフは鉄格子の鍵を開けだした。
「まずは、ここから出よう。そして元気になってからでいいんで、俺にここで何をしていたか教えて欲しい」
しかし、アドリアンは、まだ怯えた顔を見せていた。
ユゼフは自分が警備の服を着ていることを思い出した。
「ああ、そうか、これじゃ信用できないよな……えっと、ハンナさんだ」
「ハンナ?」
アドリアンの声に、初めて力が籠った。
「ああ、お孫さんに、必ずあんたを見つけると約束したんだ。一緒に元気な顔を見せに行こう」
ガチャ、と鉄格子が開いた。
立ち上がろうとしたアドリアンは、すぐに倒れた。
「爺さん、足が」
足が痛めつけられているようだった。
「ひどいことしやがる。乗れ」
ユゼフはアドリアンを背負い、そのまま出口に向かった。アドリアンは枯れ木のように軽かった。
「喋りたくなければ黙ってくれてたらいい」
来た道を戻りながら、ユゼフは背中のアドリアンに話しかけた。
「まだまだ仕事をさせられる予定だったのか?」
「……ああ」
「なぜだろう」
『乙女の百合』の贋作を作っていたにしても、お披露目も終わり、もう用済みではないのか、そう思って聞いたら。
「……壊れた」
アドリアンが呟いた。
「最初のひとつは、なんとかなった。でも、それ以来、作る端から……壊れるんだ。天が怒っているんだ」
ユゼフは、やはり、と叫びたい気分だった。
天はこの国の聖女を認めていない。
今の聖女は、偽者なのだ。
「爺さん、よかったら、そのことを俺の知り合いに話してくれないか。爺さんに悪いようにはしない。爺さんもこのままじゃ、悔しいだろ」
アドリアンは黙っていた。
「まあ、まずは脱出だ。体を治してからでいい」
ユゼフは、出口の明るい光に向かって足を早めた。
門番の男のいびきが、だんだん近くに聞こえてきた。
ユゼフは門番を起こさないように、そっと外に出た。
門番はまだまだ起きない様子だった。
すまないな。でもそのワインは本当に高級だから許してくれ。
外気に触れると、アドリアンが思わずといった様子で呟いた。
「外だ……」
ユゼフはさらに注意深く、進んだ。
「爺さん、あと少し、頑張ってくれ、荷車があるんだ。そこへ」
結婚式はまだ続いており、みんなそちらに気を取られている。
今のうちなら逃げ出せる。
爺さんを連れて行くんだ。
孫のところへ。
「爺さん、ハンナさんはまだ結婚式を挙げてないんだ。お爺ちゃんが帰ってきてからって」
「……わしのことなど放って幸せになってくれと、ずっと祈ってた」
「残された方は、そういうわけにはいかないさ」
荷車を置いた場所まで戻ってきた。爺さんを袋に入れて荷台に乗せ、
「この布を上にかぶってくれ」
念のため、布を上にかぶせた。
あと少しだ。
「よいしょっ!」
ユゼフが荷車を引こうとしたそのとき。
「ようやく、思い出した。お前、一度港で会ってるよな?」
ユリウスと呼ばれた騎士が、目の前にもう一度現れた。
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