39、最悪は今じゃない、この先にある
宮廷に潜り込んだユゼフは、辺りを見回して、誰もいないことを確認した。
慎重に、荷車を建物の陰に隠した。
「これでよし」
急がなければ。
待ち合わせは、厨房の裏手だった。
「こっちか」
ある程度の道順は聞いていた。
若い頃、いろんなお屋敷に出入りしていたユゼフは、その頃の経験に従って進んだ。
しかし。
「ヤバイな……」
緊張していたのか、うっかり、小綺麗な場所に出てしまった。
綺麗に剪定された植木、繊細な彫刻が施された噴水。
見るからに、貴族たちが歩く中庭で、下働きの者がうろつく場所ではない。
ユゼフは急いで、引き返そうとした。
そこに。
「何者だ?」
鋭い声が飛んできた。
噴水の向こうから、数人の騎士が現れたのだ。
ユゼフは素早く頭を下げて、謝罪した。
「申し訳ありません。食材を搬入する業者ですが、迷ってしまいました。お目汚し、どうぞお許しください」
腰を低くして、必死にそう言う。
一人の騎士が鋭く問うた。
「業者だと?」
「はい。恐れながら今日は、いつも以上に食材が必要とのこと。慣れない私のような者まで駆り出されているわけでして。身分証ならここに」
手渡した身分証は本物だった。買ったのだ。
「両手を挙げろ」
言われるままにする。
一人の騎士が、ユゼフの服の上から武器の有無を確かめた。
「なにも持ってません」
「そうか」
まだ納得いかない様子の騎士に、別の騎士が声をかけた。
「まあまあ、ユリウス。確かに、今日の晩餐は、種類も量もかなりのものだと聞いている。不慣れな業者が迷い込むこともあるだろう」
ここぞとばかりにユゼフは頭を下げる。
「誠に申し訳ございませんっ」
ユゼフは、芯からただの商人だ。謝ることは慣れている。
それが幸いしたのか、騎士たちは先を急ぐことにしたようだった。
「こっちはお前たちのような者が立ち入る場所ではない。去れ」
「はい!」
冷や汗をかきながら、方向転換したユゼフは、ユリウスと呼ばれた騎士が最後までこちらを見ていたような気がして、できる限り急いだ。
待ち合わせは、湿っぽい、日当たりの悪い、人気のない場所だった。
「遅かったな」
ヤンが言った。
ユゼフは汗を袖で拭いながら、答えた。
「ちょっと迷った」
「おい」
ヤンが心配そうな顔をした。
「いや、大丈夫だ。安心しろ。時間がないのに待たせてすまない」
ヤンは宮廷の料理係で、ユゼフの飲み友達だった。
王都のバルで偶然出会い、そこから気があって、一緒に飲むようになったのだ。
今回、食材の業者になりすますことができたのも、ヤンのおかげだった。
「早く戻らなければな。こんな日は大忙しだろう」
王の結婚式なのだ。目が回るほど忙しいに違いない。
だがヤンは笑う。
「なあに、俺ほど仕事の手が早いといつもと同じさ」
「急ごう」
ユゼフが言うと、ヤンは、さらに奥を指差した。
「こっちだ」
ヤンは示した薄暗い茂みには、大きな袋が隠されていた。
「ほら」
中を覗くと、警備係の服が入っている。ユゼフはさっとそれに着替えた。
「どうだ?」
「どこから見ても、くたびれた中年の警備に見える」
「くたびれた、はいらないんじゃないか」
「仕方ない。最近のお前はずっとくたびれているからな」
ユゼフは、ヤンの軽口に笑おうとしたが、上手く笑えなかった。
ヤンも笑わない。
自分が何をするつもりか、ユゼフは言わなかったし、ヤンも聞かなかった。
ただ協力してくれた。
そのことに、ユゼフは心から感謝した。
「世話になったな、これは約束の半金だ」
そう言って、以前渡していたのと同じ金額を渡そうとしたら、ヤンは首を振った。
「どうした?」
「半分でいい」
「なぜだ?」
「残りは無事に戻ってきてから、酒で返してくれ。お前のおごりでたらふく飲んでやる」
ユゼフは、そうだな、そうしよう、と言えなかった。
ヤンは辛そうに眉を寄せた。
「何をするつもりか知らないが、それは、お前でなくてはダメなのか?」
「……わからない」
「じゃあ、なぜ無茶をするんだ? 見てみぬフリだってできるだろう」
それは、ユゼフがずっと考えてきたことと同じだった。
会ったことのない爺さんのために、自分はどうして危険を冒しているのだろう。
しかし、ユゼフは呟いた。
「ここで、見て見ぬフリをしたら、もっと悪いことが起きる気がするんだ」
「もっと?」
「ああ、最悪は今じゃない。この先にある。だったら、今なら、まだ間に合うんじゃないか、そう思ったんだ」
ヤンは、言葉を探すように口を動かしたが、すぐにいつもの明るい口調になった。
「わかった」
「ヤン」
「言っておくが、金をもらわないとは言ってないぞ。終わったら、いつものバルに来い。高いものばかり注文してやる」
そして、去っていった。ユゼフは心の中で、その背中に頭を下げた。
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