16、すでに一番のご褒美をいただいているようなものですから

「エルヴィラ様、お茶をお淹れしました」

「ありがとう」


茶器を手に取ったわたくしは、ふわっと広がる香りに思わず微笑みました。


「こちらはもしかして」


クラッセン伯爵夫人も微笑みました。


「はい、皇后様のお気に入りの茶葉です」

「さすが、違いますね」


百合がつぼみをつけたことを祝って、皇后様が茶葉を贈ってくださったのです。


「美味しいわ」

「エルヴィラ様」


クラッセン伯爵夫人が、心配そうな顔で言いました。


「皇后様も体を休めるようにと仰っていましたし、どうぞご無理なさらないでください」

「そうです! エルヴィラ様!」


エルマも一緒に心配してくれましたが、そういうわけにはいきません。

わたくしは茶器を置いて微笑みます。


「百合が咲くまでのことですし、大丈夫です」

「ですが……」


みんなの心配をありがたく感じながらも、お茶をいただいたらすぐに、温室に戻るつもりでした。

エルマが潤んだ目で、お皿を差し出します。


「ではせめて、このクッキーを召し上がってください! とても美味しいんですよ」


手を伸ばして、ひとつ、いただきました。


「まあ」


思った以上に爽やかな甘さで、疲れた体に染み渡るようです。

エルマが誇らしげに説明します。


「料理長がエルヴィラ様のために、滋養にいいお菓子を作ってくださったのです! 南部のはちみつと果物が使われています!」

「それでこんなに爽やかな甘さなのね」


クラッセン伯爵夫人が言い添えます。


「エルマが何回もキッチンに通って、あれこれ注文をつけておりました」

「クラッセン伯爵夫人!」


エルマが真っ赤になって叫びます。クラッセン伯爵夫人は、笑いをこらえながらたしなめました。


「エルマ、静かに」


エルマはいたずらが見つかった子供のように、顔を赤くして下を向いてしまいました。


「あの、エルマ、なにもお手伝いできないから、せめて美味しいお菓子を、と思ったんです」

「そうなの、エルマ」


わたくしはエルマに微笑みます。


「つまりこれは、料理長とエルマの合作なのね。とても美味しいわ」


エルマは、ぱあっと明るい顔になりました。

わたくはクラッセン伯爵夫人にも礼を述べます。


「本当に、わたくしの回りはいい方ばかりで。これもクラッセン伯爵夫人が、気を配ってくださるおかげですわ」

「もったいないお言葉です」

「他国から来たわたくしにとって、こんなに心強いことはありません」


他国で婚約破棄された公爵令嬢に仕えることに、抵抗があった人もいたでしょう。

それなのに、皆、心を込めて尽くしてくれているのです。


「わたくしたちはエルヴィラ様にお仕えできて、ありがたく思っておりますわ」

「そうです! 南の地方の干ばつが解消されたのも、エルヴィラ様のおかげでしょう? 聖女様にお仕えできるなんて、エルマはとても幸せです!」

「エルマ、声をもう少し落としなさい」

「すみません」


エルマとクラッセン伯爵夫人のいつものやりとりを微笑ましく思いながらも、わたくしは首を振りました。


視察先の干ばつが解消したとは、皇后様から直々に伺っておりました。

ですが。


「わたくしは何もしておりません。民の祈りが届いたのでしょう」

「エルヴィラ様……」


クラッセン伯爵夫人が小さく呟きました。

と、そこへ。


「あ、もしかして!」


エルマが、突然叫びました。


「民の祈りもあるでしょうけど、もしかして、これ、皇帝陛下に対する天のご褒美じゃないでしょうか?」

「ご褒美?」

「エルヴィラ様をお迎えした皇帝陛下に、天がよくやった! とご褒美をくださったんですよ。だから陛下の視察先で、わざわざ奇跡が起こったんです。だから、つまり、やっぱり、エルヴィラ様のおかげなんです。エルマはエルヴィラ様が帝国にきてくださって本当に嬉しいです」


クラッセン伯爵夫人も頷きます。


「そうですね……声は大きいですが、わたくしも同感ですわ」

「そうでしょう?」


クラッセン伯爵夫人とエルマが頷き合います。わたくしがなんと言っていいか悩んでいると、エルマはさらに、はっとした顔をしました。


「でもちょっと、おかしいですね。それだと、一番ご褒美をもらえるのは皇太子殿下のはずですよね? 皇太子殿下がエルヴィラ様を連れてきてくださったのに」

「ああ、それでしたら」


クラッセン伯爵夫人が、わたくしを見つめ、にこやかに言いました。


「すでに一番のご褒美をいただいているようなものですから、よろしいのではないでしょうか」

「え……? あ、そうですね! エルマもそう思います!」


わたくしは、なんと答えていいかわからず、二枚目のクッキーに手を伸ばしました。








お茶をいただいた後は、いつも通り温室に向かいました。ベンヤミンたちも、一生懸命世話をしてくれております。


「変わりはないですか?」

「はい、エルヴィラ様。どの百合もイキイキしています。早く、皇太子殿下に見ていただきたいですな」

「ええ」


皇帝陛下がお戻りになられたことで、ルードルフ様はさらにお忙しいご様子でした。

こちらの様子を気遣う手紙はいただいておりましたが、お顔を合わせることはなかなかありません。


もちろん、百合のことは報告はしておりました。

ですが、実物を見たルードルフ様が、どんなに驚いて、どんなに喜んだお顔をするだろうかと考えると、お見せしたい気持ちがどうしても高まります。


ですが。

ほっとしたのでしょうか、わたくしは不意に昔のことを思い出してしまいました。


「どうしましたか?」


わたくしが黙ってしまったので、ベンヤミンが心配そうな声をかけてくれます。

いけませんね。


「なんでもありません。向こうの方の百合を見てきますので、こちら側をお願いしますね」

「わかりました」


百合の間を歩きながら、わたくしはトゥルク王国のことを思い返しておりました。


あの頃のわたくしは、今と同じように『乙女の百合』を育てながら、これが咲けば、アレキサンデル様はわたくしに久しぶりに笑顔を向けてくれるだろうか、と思っていたのです。


「愚かですね……」


誰にも聞こえないように、そっと呟きました。


すでにナタリア様と睦まじかったアレキサンデル様に、そんな心の隙間があるはずもなかったのですから。


アレキサンデル様と婚約者として過ごした間は、短いものではありませんでした。

その間わたくしは、燃え上がるような熱情は存在せずとも、お互いを思いやる気持ちさえあれば、支え合っていけると、根拠もなく信じていました。


「思い込みはいけませんわ……」


百合は、つぼみを膨らませて揺れております。

よく見えるように、わたくしはしゃがみこみます。


「ここまで、育ってくれてありがとう」


と、温室の入り口から賑やかな声が聞こえました。


「エルヴィラ!」

「まあ!」


お忙しいはずのルードルフ様が、そこにおりました。




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