第4話:ナザレのイエス、水面に立つ

 簀巻きで石を括り付けられ、ヨルダン川に投げ込まれた俺。

 苦しさのあまりもがこうとするが、それすらできない。簀巻きだから。

 キリキリとコメカミが痛くなる。心拍の音、血流の流れる音が耳に響く。


「ゴボッ」と大きな空気の塊を吐き出した。


 ゆらゆらと揺れながら、ヨルダン川の水面へと上昇して行く。俺の呼気。

 肺の中の空気はもはや限界点を突破。

 苦しい。苦しい。苦しいなんてもんじゃない。言語で表現できる限界点を突破してんじゃねーかこれ!

 

 あがががががが!!!


 ゴボゴボと、肺の中に残った空気を吐き出しながら、俺の意識はブラックアウト寸前。


『あれ? なんで沈んでの? イエス』

『主? 主なの? 主ぅぅぅぅぅ! 助けてマジで! 死ぬ!』


 神の声が聞こえた。


『いや、キミには奇蹟の力あげたよね? 水面を歩けるとかさ』

『あばばば、苦しい。水の中で呼吸できる奇蹟は?』

『ない。そんなものは作ってない―― 全知全能だけどない』

『なんじゃそりゃぁぁ』


 俺は水面に向かって跳ねていた。

 理不尽なこの腐った世界に対する怒りなのか?

 俺の身の内に生じた爆発のようなエネルギー。

 それが、俺の身体を水中から水面へブチ上げていた。


「はあ、はあ、はあ、あは――」

 

 ひふぅぅぅぅ――

 はひぃぃぃぃ――


 大気を思いきり吸いこんだ。肺がキリキリ痛い。

 俺は水面に立っていたのだ。

 ヨルダン川の水面に立ったのだ。


 俺は栄養失調寸前のガリガリの身体。

 しかし、怒りが人知を超えたパワーを生み出したのか?

 これが奇蹟か?

 

 気が付くと俺は、水面に立っていたのだ。

 簀巻きにされていた縄やらゴザみたいなのも、引きちぎっていた。


「あ、あ、あ、あ、ああああああ、死ぬかと思ったぁぁぁ!!」


 もう、それ以外の感想は無い。マジで死ぬかと思った。

 なにこれ? これが洗礼?

 俺は涙目で「ヒ―ヒーヒー」と荒い呼吸を続けながら考える。

 水面に立っている奇蹟よりも、助かったことの方がありがたい。


 呼吸が落ちつく。

 同時に怒りがわいてきた。

 俺は、川縁で、腰を抜かしているヨハネとその弟子を見た。

 

 毛皮の裸エプロンをつけた蛮族のような格好。それが預言者ヨハネだ。

 でもって、鹿の角をハゲ頭に縛っているのが弟子だ。

 俺はコイツラを見つめ拳を固めた。


「てめぇら…… よくもやってくれたな。これが洗礼か? ああん~」


 俺は水面の上を歩いて、ヨハネに接近していく。


「あああああ!! 奇蹟なのじゃぁぁ!! 神の奇蹟なのじゃぁぁぁ!!」


 ヨハネが叫ぶ。

 アフロヘアがブルブル震えている。叫びの振動で。

 ヨルダン川の沿岸全域に響きそうな狂気の絶叫だった。


「ワシより強いのじゃ! これはもう、ワシを越えているのじゃ!」


 ヨハネが急に俺を拝み始めた。

 預言者ヨハネのその姿。俺の中に生じた怒りがだんだん萎んでくるのを感じた。

 所詮は教養のない古代人なのである。まあ、俺もそうだけど。

 

 人間を水に沈めて、神とか洗礼とかやるのはどうかと思うわけだよ。

 こんなん、やられたら息が苦しくなって、幻覚みて頭おかしくなるに決まっている。

 俺が山道ですれ違ったおっさんも、この洗礼でヨハネに頭の中を破壊されたのだろう。


 つーか、俺で一万人目だっけか。

 ようするに、五ケタに迫る人間の脳を破壊しまくったというわけだろう。

 このヨハネは…… 生粋の狂人だ。俺は思ったのだった。


「まあいいか――」


 俺はそう言うと、陸に上がった。

 俺には関係ないのだ。

 

 つーか寒い。

 ボロキレのような服もびしょびしょだ。

 あれ?

 

「なんだ、たき火しているのか?」


 弟子たちが起こしたのだろうか?

 焚き火がある。俺は濡れた体をそこで乾かそうとした。


「どうぞ! どうぞ! お体を乾かしてください!」

 

 弟子たちが勧めてくれた。

 パチパチと音をたて、火が燃え上がっている。

 俺は焚き火に当たる。炎の作りだした温度が気持ちいい。

 

「おい、なんだこれ?」


 俺は言った。焚き火の中に何かが突っ込んであるのだ。

 鉄製のなにか。

 焚き火の中で真っ赤になっている。


「焼印の『六芒星(ヘキサグラム)』のスタンプなのじゃ」

「え?」


 そう言うと、真っ赤になった鉄の棒を握った。

 ジュゥゥゥ~ッと肉の焼ける匂いがした。ヨハネの手が焼けたのだ。

 それでも薄ら笑いを浮かべ、それをひょいと持ち上げる。


「記念すべき、1万人目の洗礼者用の焼印だったのじゃが…… やりますか? イエス様?」


 恐る恐るという感じで俺に訊いてきた。


「常識で考えろよ! 溺死寸前の洗礼受けて、更に焼印かよ! ローマの拷問かよ!」


 ヨハネは俺の言葉を聞くと「せっかく作ったのじゃ……」とぼやくように言った。

 そして、そいつをまた焚き火のなかに突っ込んだ。

 ヨハネの手の皮がやけどでベローンと剥け、真っ赤になっていた。


「ああ、次の洗礼を受けた物に、この焼印の祝福を与えるのじゃ……」


 ヨハネはグルグルと回る焦点の合ってない目を彼方に向けて言った。

 俺は焚き火の近くに座った。

 ヨハネがこれから何をするのかは、どーでもよかった。


         ◇◇◇◇◇◇


 ヨルダン川沿岸を闇が覆う。

 焚き火の光だけが、その闇の底をぼんやりと照らしていた。

 

 もう引き返すこともできないので、俺はしかたなく、ヨハネたちといた。

 ヨハネはさっきから、焚き火でなにかを炙って食っていた。弟子たちもだ。


「なに食ってんの? ヨハネ」


「バッタですじゃ」


「そう……」


 狂ってる。バッタを焼いて食っていた。

 食べられる物なら、「くれ」というところだが、バッタはいらない。


「バッタは美味しいのじゃぁぁ」

「そうです! バッタ最高!」

「神の国では、バッタが食べ放題だといいですなぁ!」


 ウンウンと頷く狂気の子弟たち。

 バッタ食べ放題の神の国とか俺は嫌だ。


 コイツらはモチャモチャとバッタを喰い続けていた。

 もう、明日の日が昇ったら、早々にここを出ようと思った。

 

『イエス君、どうだね? 調子は?』

『主ですか? いや、コイツらバッタ食ってるんですけど。呪った方がいいんじゃないですか?』


 俺は神の声に答えるのだった。

 確か、旧約聖書のレビ記では昆虫は食べちゃダメ言っていたような記憶があるのだ。

 俺は字が読めないが、字の読めたオヤジに何度も聞かされている。


『昆虫? あれ? 吾輩はそれを禁止したっけか?』

『したんじゃないっすか? レビ記で。預言者が禁止されている虫喰ってるのはまずいっしょ』

『そうだっけ……』

『そうですよ』

『まあ、それはいいわ。今はさ。で、イエスちゃん』

『なんすか? 主』


 この、ブレまくる厳格さは、まさしく俺たちの神だなと思った。

 とにかく、神の言っていることを人の価値観で測ってもしょうがないのだ。


 焚き火のおかげで服はもう乾いている。

 俺は焚き火の向こうにいるヨハネたちを見た。


 俺と主の念話に全く気付くことなく、ヨハネたちは食事を続けている。

 ヨハネは、どこにあったのか、ハチの巣をとりだした。

 で、そいつをバリバリと喰い始めた。蛮族だ。


「蜜が染み込んで美味しいのじゃ」


 高濃度の狂気を結晶化させたような容貌を崩す。で、ニヤニヤと笑う。

 呪えばいいのにと思った。


『しばらく、コイツラと修業しなよ。吾輩としてはそれがいいと思うんだけどね』


 神は言った。俺はそれに従うしかなかった。

 呪いたい。

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