第3話:ヨハネの洗礼(バプテスマ)危険すぎ

 俺はイマイチ納得できないながらも、山道を進んだ。

 家族も捨てた。というか、俺より稼ぎのいい弟たちがいるので、特に心配はない。

 ちょっと解放された気分になった。


 もしかして、生まれて30年間で一番気分がいいかもしれん。

 淫売の母親マリアの軛(くびき)から解放されたって感じがあったのかもしれん。


「で、ヨハネってこの辺なんだよな」


 なんちゅーか、むき出しの岩ばかりの場所だ。

 ナザレが田舎で僻地とするならば、ここは人外が住む場所だ。

 人がいない。狐狸の類しかいないんじゃないか? 


 辛うじて道があるくらい。他なんもない。

 で、河が流れている。ガリラア湖に流れ込む、ヨルダン川だ。

 ナザレからセッフォリスと真逆の方向。


 テクテクと俺は歩く。登り道だ。

 

「あ、人だ」


 目で見たことをそのまま口に出していた。寂しかったから。

 ずっと歩いているけど、人とすれ違うのは初めてだった。

 それくらい、人気がないのだ。


 俺は、ちょっと話してみようかなと思った。

 歩いてきたのはおっさんだった。

 

「なんだ?」


 俺は首をかしげた。なんか、おっさんびしょびしょなのだ。

 全身が濡れている。


 決して寒いというほどではないが、びしょ濡れの身体であるきたいほどの気温じゃない。

 それでいて、スキップするぐらい上機嫌なのが分かった。

 山道をスキップで降りてくるおっさんを見るのは初めてだった。


「あの~ すいません。俺、ナザレのイエスっていうケチな大工(テクトーン)なんっすけどぉ」


「ん? なに?」


 おっさんは立ち止まって俺の方を見た。

 なんか、目が完全に逝ってる感じ。どこにも焦点が合ってないか、どこか別の世界に焦点が合ってる感じだった。

 ちょっと、話しかけたのを後悔した。


「あの、この辺にヨハネさんていません? 洗礼してくれるヨハネさん」


「ああ、預言者ヨハネね! いるよ。この上に! キミもあれかね、洗礼を受けに来たのかね?」


「ええ、まあそんなもんですけどね」


「流行っているよね。洗礼! イエーイ!」


 おっさんは、ハイテンションでその場で飛び跳ねる。

 ちょっと恐怖を感じる。


「まあ、流行していようが、いまいが、俺は洗礼いくんですけどね」


「またまたぁ、そんなこと言って!」


 なんか洗礼が流行っているのか?

 で、俺がそれに乗っていると――

 こう、端的に自明のこととして決めつけられると、どうにも気分が良くない。

 俺が俗物的な、流行に身を任せる人間だと決めつけられた気がした。

 むかつく。


「ヨハネの洗礼受けると、このスタンプを押してくれるんだよ」


 そう言って、おっさんは、前髪を持ち上げた。

 額に歪んだへたっぴな「六芒星(ヘキサグラム)」のスタンプが押してあった。

 なんだそれ?


「それなんです?」


「洗礼を受けた明かしだよ! これで神の国だよ! ひゃははははは!! イエーイ!」


 そして、俺はおっさんと別れた。

 おっさんは、スキップしながら山を下っていく。勢いが落ちない。


 俺は空を見た。

 ぴぃひょろろろろろろ~とトンビが輪を描いて飛んでいた。

 たぶん、トンビだと思うけど。


「やめよっかな……」


 俺は考えた。どうみても、あのおっさんは普通ではない。

 ただ、それが洗礼を受けたことにより、何らかの作用であのような状態になったのか。

 それとも、元々あのようなおっさんであったのか。それが分からない。

 どうすべきだろうか。


「まあ、行くだけ行くか……」


 俺はそう決めて、歩き出した。

 こんどは、向こうから砂煙を上げて、走ってくる集団がいた。

 なんか「あばばばばばばばば!! 神の国は8回の裏ぁぁぁ!! 33-4!!」とか言いながら走ってくるのだ。

 

 俺はその集団を見やった。すれ違う。

 全員、びしょ濡れだった。男女入り乱れ、絶叫しながらスキップだ。高速スキップだ。

 叫びがドップラー効果の尾を引いて、遠ざかっていった。


「やめようか……」

 

 俺はその集団の後ろ姿を見ながらつぶやいた。

 今の集団も洗礼を受けたのだろうか?


 かなりヤバいのではないか?

 ヨハネの洗礼。

 いったい何をやっているのか?


「止めた」


 俺はそう言ってターンした。今から戻れば、一番近い街までは日が沈む前に着くだろう。

 

「待ちなさい!」

「待つのだ!!」


 声が響いた。ふたりだ。

 なんか、鹿かなにかの動物の毛皮を身につけた蛮族のような男たちだった。

 俺は目を伏せて、スタスタと山を下りた。


「待つのだ! 洗礼を受けに来たのだろう!」

「そうだ! ヨハネ先生の洗礼を! ここまで来て諦めるのか! キミ!」


 俺は振り返って、ふたりを見た。

 洗礼を止める決心が強固なものとなる。無理。


 ふたりとも、毛皮をダイレクトに身に着けている。

 で、鉢巻をして、そこに鹿の角を2本を頭に指していた。つるっぱげの頭にだ。

 意味不明だった。


「いえ、俺、洗礼を受けに来たわけじゃないっすから……」


 そう言って、俺は早足になる。

 しかし、回り込む変な奴。


「いやいやいや!! キミ、キミが洗礼を受けると、ヨハネ先生が洗礼した記念すべき一万人目になるんだよ!」


 そう言って俺の行く手を遮った。

 ぶん殴って、通ろうかと思ったが、コイツラふたりとも、無駄にガタイがいい。

 栄養失調気味の俺の細腕パンチでは、どうにもできそうにない。


「いや、でも、俺、ちょっと急用があって…‥」


「きえぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 目の前の男が飛びあがった。手のひらを広げ、それを持ち上げた。

 そして、そのまま、掌を俺の首の頸動脈に叩きこんだ。

 2000年後の世界で「モンゴリアンチョップ」と呼ばれる技だった。


 俺はまたしても気絶したのだった。


        ◇◇◇◇◇◇


「というわけで! 記念すべき1万人目の洗礼です! えー! その人はナザレ村から、はるばるやってきたイエス君です!!」


 わーー!!

 という声で俺は目を開けた。

 手足が動かなかった。

 縄で縛られているのだった。


「なんだこれは!! オマエラ、なにすんじゃぁぁぁ!!」


 俺は絶叫した。起き抜けの絶叫で頭がくらくらしたが、仕方ない。


「洗礼です! これから君は栄えあるヨハネ様の1万人目となる洗礼を受けるのです」


 ハゲ頭に、鹿の角を指したバカだった。

 俺にモンゴリアンチョップ(約2000年後命名)を叩きこんだアホウだ。


「なんだよこれ? これが洗礼か!!」


 俺はグルグル巻の簀巻きになっていた。

 おまけに、脚にはでっかい石が縛り付けてある。

 いや、違う。体のあっちこっちだ。石が括り付けてあるのだ。


「水をもって洗礼(バプテスマ)を行うのじゃぁぁ!」


 声が聞こえた。

 俺は声の主を見た。やべぇ……

 そこにいたのは、見た瞬間とびきりヤバいのが分かる奴だった。


 まず、右目と左目が常に、グルグル回転していた。

 おまけにアフロのようなテンパー。

 布一枚を、前掛けのようにひっかけた全裸の男。

 いや、辛うじて腰に毛皮をまいている。

 蛮族の酋長にしか見えん。

 

「おお! ヨハネ様ぁ! それではさっそく洗礼を!」


 ふたりの男は、そう言って俺を担いだ。石がくくりつけてあるので、相当な重さだ。

 ヤバい。ヤバすぎる。大人しくナザレで大工やってりゃよかった。

 

「水の中で洗礼を受け、神秘を体験するのじゃぁ! 神と一体となるのじゃ! ありがたいのじゃ! 神の光が見えるのじゃ!」


 もはや何を言っても止まりそうにない狂信者の目で俺を見つめる。

 ヨハネという男。これが、有名な預言者なのか……


「ヨルダン川の底で神秘を体験するのじゃぁ! 心の中に、信じる心さえあれば、神との通信回路が開き、神託を受信してしまうのじゃ。それは奇蹟。ある種の奇蹟なのじゃ! できる! 絶対にできるのじゃぁぁ! 神の国はそこ!」


 神秘もクソもなく、神と何度か話をしているけど俺は。

 つーか、死ぬる。俺はヨルダン川の藻屑と消えるのだ。ああ、アホウか――


 ぽい――


 不意に重力がなくなる。

 投げ捨てられた俺。

 

 バシャーン!!


 叩きこまれた衝撃。

 そして、冷たい水の温度を全身で感じた。


 ブクブクブク――

 沈む俺。

 全く身動きできない。


 石の重みが俺を一気に川底まで叩きこんでいた。

 滑った泥が俺の身体にまとわりつく。死にそう。いや、マジで死ぬ。なんでこんな目に――

 薄れいく意識の中、俺は何かを呪っていた。なんだろう。よー分からん。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る