第13話 呼吸を忘れた話

息を忘れた。

どうやって呼吸をしていたのか、忘れたのだ。

決して比喩じゃない。自分がこれまで感じていた、鼻から空気を吸い、口から吐くという、行動をできなくなってしまったのだ。

けれど、決して苦しくない。においも味も、置き去りにしてしまっているが、それでも自由だと思った。

空気を吸わなくていい。それは、なんとも自由なことだと思った。



「マスク、忘れた」

やらかした。バスの中で、宙に浮く。

口を噤んで、飛沫感染を意識していますよとアピールする。


「酸欠で死にたい」

知識をひけらかすように、私は言った。

酸素を吸えていないのに、何を言っているのだろう。

それでも、死に方を選べるのであれば、二呼吸で死ねる酸欠がいい。



息が詰まった。足りなくなったのだ。

胸にぽかりと穴が開いて、埋めるものも見つからず、どうにも寂しくて、仕方ないのだ。そばに人はいる。一人ではない。ただ、どうしようもなく、ひとりぽっちなのだ。

ほしい人からの連絡がこない。先回りした回答じゃなくて、本音が欲しい。人との距離感がうまくつかめない。立ち止まって考えて、割り切った関係を築いていくのだ。


そう思うと息が詰まる。動かないと、あがかないと、胸の穴に気がいって、なお息が苦しくなるのだ。息を忘れているはずなのに、のどがきゅっと苦しくなる。

きっと誰でも持ち合わせる、ひとりぽっちだ。だから、向き合って、ひとりぽっちと向き合わなければならない。それのほうが、まだ苦しくない。



「息って、自己満足じゃないの?」

メロンソーダ越しに言われて、はっとした。

「自己満足……?」

「それは、体が生理的に欲しているから、しなければならないというのが普通だけど、あなたはそうじゃなくて、忘れちゃったんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、したくないから忘れたんだよ。忘れたって口実で、息をすることから逃げたんだよ。所詮、自己を埋めて、満足するための行動だったってことでしょ?」


アイスクリームが解けていく。

生きるために、必要だと思っていたものが、自己満足といわれて衝撃を受けた。

そうか。私は自己満足のために息をしていたのか。

「だから、とりあえず、もう一回忘れようと思えば?どうやって息してたんだっけ、じゃなくてさ、息の仕方を忘れようとするの。そうしたら、逃げ場がなくなって、息できるようになるんじゃないの」


思い出すのに、少し時間がかかりそうだ。

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