第6話 脱法チョコレート

 6歳の時、母親と街へ日用品を買いに出かけた。

 田舎の村に住んでいるから、週に1回ははち切れそうになったソーセージや、布の切れ端を買いにこないといけない。

 私は匂い水の小瓶の色を見たり、帽子に飾る花を眺めたりして時間を潰す。

 でも、人の多い街で、買い物待ちというのは退屈な上に疲れてしまう。通りの壁に背を預けて、じっと電線に止まるカラスの数を数えていた。


「お嬢ちゃん」

 最初は空耳かと思った。辺りを見渡してもみんな忙しそうに通り抜けるだけだし、私の服が冴えないことに改めて気づくのだ。


「お嬢ちゃん」

 今度は真後ろから聞こえてきて振り返った。お店の角に細い通りがある。

 日の当たらない路地に男の影が見えた。

「わたし?」

「そうお嬢ちゃん。ちょっと来てみなよ」


 人攫いかも。

 でも警戒するより、好奇心が勝った。退屈が拍車をかけたのもある。

 一歩路地に入ると、街のざわめきが遠のいた。お店の厨房から出る煙が、壁を黒くしていて埃っぽいし汚い。

 そこに溶け込むように、その男は立っていた。腰を曲げて私を見下ろしている。


「お嬢ちゃん、退屈だったろ?」

「うん、まぁ」

 がさつな発音だった。学校の友達も先生も、みんなおっとり優しく喋るのに。

「この町は退屈なことしかねぇからさ。じっと待ってる我慢強いお嬢ちゃんに、御褒美をあげよう」

 大きな目をパチパチさせて、諭すように言うと、男はポケットに手を入れた。

 上着についた小さなポケットから、1粒の銀紙が出てくる。


「世にも珍しい、チョコレートだ」

「ちょこれいと?」

 初めて聞く単語を聞き返す。誰も私たちに気づいていないし、母親もまだ買い物が終わらない。

「ずっと昔は普通に食ってられたんだけどな、あまりにも美味しすぎて国が廃棄したんだ」

「はいき?」

「今じゃねぇってこと。ほら食ってみろ」


 ぽんと掌に乗せられた銀紙をゆっくり剥がす。中から茶色い粒が現れた。この路地にぴったりな薄暗い印象で、本当にこんなもの食べるのかと男を見上げた。男は催促してくる。恐る恐る指で摘んで口に入れてみた。

 生まれて初めて、香りと食感に目眩がする。

 溶けていく個体が、口の中へ絡みついて舌の裏や喉の奥へと張り付いていく。甘い、けれど少し苦い、そして嗅いだことのない華やかな空気が鼻の奥に漂ってる。


「うまいか?」

「おいしい」

 男は嬉しそうに笑った。その後、人差し指を口に当てて、しーっと口を窄める。

「これはお嬢ちゃんだけのプレゼントだ。大人には言うなよ」

「うん」

 クラクラと頭が良く回らない。男は笑って去っていった。


 このあとが大変だった。

 町を探しても、チョコレートなんて売ってない。街の人にも聞けない。

 あの甘美な一粒を思い出しただけで溶けそうになるのに、また食べたくて仕方ないのだ。息を吸うたびに香りが消えていきそうで、苦しくなる。私の頭の中はチョコレートのことでいっぱいだった。


 13歳になった時、街の図書館へ出かけるようになった。

 文字が読めるようの文法を必死勉強して、同い年の子よりも優秀な成績を残した。学校でいい成績の子は、学校で使う本を街から借りてくる手伝いがあるのだ。私は街へ降りる口実が増えた。


 遭遇した路地にも男はいない。似たような薄暗い場所を探してもいない。

 チョコレートの誘惑は強くなるばかりだ。私は図書館でチョコレートを調べるようになった。

 この街には昔、酒とタバコ、そしてチョコレートが溢れていたらしい。その蔓延り方や、労働の妨害と中毒性の高さ、人への悪影響が大きすぎるため法によって禁じられる。手にした者には懲罰と重い未来が待っている。


 私は血の気が引いた。私は知らずとはいえ犯罪者になってしまっていた。この7年間、ずっと悪いことばかり考えてきた、とっても悪い人間になっていたのだ。どうしよう、自治防衛団に言うべきか。でもたった一回のことで、しかも知らない人から食べさせられたのだから、わざわざ犯人ですと言いに行く必要はないんじゃないか。もうきっと、食べる機会もない。ゴクリと喉がなった。


 必要な本を抱えて村へと帰り道をゆく。けれど、7年間やってきた癖は抜けず、路地に無意識に目がいった。


 擦り切れた茶色い、影が見えた。

 私は本をだき抱えて走り出していた。何でか自分でもわからない、ただ心臓がバクバク血を送って、胸の中で明るい感情が溢れ出したのだ。

 必死に狭い路地を走った。陰は曲がり角へ消えた。勝手口のバケツを思い切り蹴飛ばして、派手な音が路地に響く。バレちゃいけない。肝が冷えた。さらに速度をあげて曲がり角を曲がった。


「やぁお嬢ちゃん」

 目の前に男がいた。ぶつからないように止まろうとするけれど、つんのめって転んでしまう。

「そんなに慌てて何かあった?防衛団に追われたとか?」

 ニヤニヤと聞く男に、深呼吸をして冷静になろうとした。

「私、悪いことしてません」

「コレ、追いかけてきたのに?」


 驚いた顔を作って男は銀紙を見せた。

 かっと頭に血が登り、反射で手を伸ばしてしまう。遮るように男が私の手を掴んだ。

「お嬢ちゃん悪いねぇ。チョコレートは禁止されてるんだぜ?」

「で、も、食べさせたのはあなたです」

 苦し紛れに睨みつける。男は声を上げて笑った。カラスが屋根からこちらを見ている。


「そうさ。でも、あれは禁じられていない」

「なに?」

「脱法チョコレート。君はギリギリ、犯罪者じゃない」


 よかったね、なんて言われるけれど手の力は抜けないのだ。私も隙があれば銀紙を奪ってやりたくて、何度も腕を伸ばす。

「君が正しい方法を身につけたら、これ分けてやるよ」

「え?」

 パッと周りが明るくなった。長らく夢見たものが、やっと手に入る。男は笑った。


「こいつはね、快楽の度数が半端じゃねぇんだ。いくら脱法とはいえ、慣れねぇと一発でバレる。そこで」

 ぐいと腕を引き寄せられた。一気に男の顔が近くなる。痩せた顔にニキビが出来ているのを見つけた。男からは7年前に嗅いだ甘ったるい匂いがした。


「お嬢ちゃんは毎日俺とキスしな」

「えっ」

 身を引こうとするけれど男の力に勝てず、ぐいと余計に距離を縮められた。

「キスも知らねぇガキが、チョコレート食ってたら一発アウトだっつってんだ」

「でっでも、キスは結婚相手とするものよ?」

 怖くなってきた。私は何をしようとしているのか、やっとわかってきたのだ。あれは魔の食べ物だ。


「犯罪一歩手前で、んなこと言うんじゃねぇよ。チョコ食いたいんだろ?」

 項垂れながら、考えてみる。私は優等生で、でも魅力的なものを見つけてしまって、そしてそれが欲しい。ぼんやり黒いものが頭を覆い始める。不可抗力だけれど一度食べたから、もう何度食べても変わらないんじゃないか。そうだ今更、キスがどうっていうのだろう。私はもう、悪い子なのに。


「食べたい」

「よし、いい子だな」

 男は笑ってみせると、口を塞いだ。かつて嗅覚を擽ったチョコレートの香りがした。

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