第5話 死の結晶

 友人が受け取ったのは、綺麗なボトルだった。

 綺麗、といっても繊細な装飾が施されているわけではない。至ってシンプルな外見だった。


 掌より少し大きい立方体は、淡青の硝子が、どろりと水飴のような粘り気を帯びながら、型を使わず無造作に作られたようで、厚い面は、指に馴染む滑らかな凹凸を描いていた。

 青みがかったその色は、水溜まりに浮かぶ空の色のような、はたまた泡を浮かべた浅い海のような、美しい透明感を携えている。

 側面から覗くと、少年の靴が、水面の上で揺れていた。


 口は遠慮がちに天井に向かって細い線を描き、その中にコルク栓が居据わっている。真空になることはないが、コルクが外の世界とボトルの中を、はっきりと隔てているのがよくわかった。ボトルの中は別世界なのだ。他には出来ない特別なことで、つまりこのボトルは特別なものなのだ。そう思うと、興奮を抑えるのに精一杯になった。


「ありがとう、おじさん」

 友人は落ち着き払って丁寧に礼を言うと、一度僕を見て階段へと向かった。

「中に何を詰めるんだい?」

 友人と並んで一階へと降りながら、僕は尋ねた。


 このボトルは密かに特別を抱き、叔父はそれに気付かず友人に譲った。

 愚かだ、とは微かに思ったが、友人を羨ましいとは思わなかった。それが正しい選択だったと頷けたし、こうなると決まっていたのだと、確信があった。

 僕が受け取るより、友人の手によく馴染んで静かに息を潜め、微睡みはじめているボトルを眺める方が、よっぽどいいと判断できたのだ。友人が、冷たい底に沈める何かを想像するだけで、胸が高鳴った。


 友人は、ずり落ちたサスペンダーを元に戻しながら、すまし顔で、

「何か素敵なモノをね」

 と答えた。


 ぎしりと板床が軋んで、一階の飲み屋に繋がるドアを押す。

 まだ昼間で準備中だからか、子供が店の中を通り抜けても、咎める者はいなかった。僕らは、真っ直ぐ出口へと向かった。

「何か詰めたら、ぜひ見せてよ」

「あぁ、そうだね」

 積もった雪を踏みしめつつ、彼は足早に去っていった。しんしんと降り積もる、雪の音がいやに耳についたが、特に気にすることもなく家へ戻る。

 ボトルの事が、忘れられなかった。


 ***


 しばらく経って、僕は彼の部屋に呼ばれた。

 僕は急いでブーツに履き替え、コートを取り上げると、階段を駆け降りた。無意識のうちに、足取りを早くしていたようで、気が付けば杉林の前を抜け、雪解けのぬかるみを避けて通り、瞬く間に彼の家に辿り着いていた。


「御免ください‼」

「やぁ、早かったね」

 彼は玄関で待っていた。鼻を赤くし、白い息を吐いている僕を見て少し笑うと、早くおいでと階段を上がる。僕は変に緊張して、そわそわしながら後に続いた。

「ココアを淹れてくるから、待っててね」

 ドアを開けて、僕が中に入るのを促してから、また階段を下りていく彼を見送って、息を一つ飲み込み僕は部屋へと乗り込んだ。


 果たして、ボトルはすぐ見つかった。

 彼の机の中央に、ぽつんと置かれていた。相変わらず、冷たく輝きながら凛とそこにいたが、この間とは明らかに様子が違っていた。僕が呼ばれた理由通り、透明の中に何かを孕んでいた。僕はゆっくりと机に近付きながら、目を凝らした。


 丸々と太ったネズミの死骸だった。


 底を陣取り、横たわっているネズミは、少し窮屈そうに丸くなっていた。長い尾が、体に沿うようにして、壁との間に隙間を見つけて、円を描いている。動物実験で使うハツカネズミなんかより、はるかに太っていて、茶色い毛が僕の気配を感じたのか、怯えたように僅かに震えた。


 口は少し空いていて、呼吸をして今にも動き出しそうだったが、だらんと垂れた髭と前足の力の無さと、固く閉じられた瞼が、永遠の冷たさの中を漂っていることを、物語っていた。

 窮屈そうだが、外界から隔てられた環境は、快適なのかもしれない。

 害虫に食い荒らされることも、カビに腐敗されることからも逃れて、穏やかな眠りの中を安心して深く眠っているのだ。


 一方、一瞬の死をそのままの形で永遠としたボトルは、ネズミの死を美しく彩り冷たく見守りながら、次第に自分の中へと取り込んでいくことに決めたようだ。

 ボトルの中は心地よい静寂のベールに包まれ、取り込まれたネズミはその優しさに凍える結晶と化していた。


「どうだい?」

「……見事なものだよ」

 ボトルを見つめながら僕はぼやく。彼の足音が僕に近づき、ゆっくりと僕の横を通って向かいに座った。

「気に入ってもらえて、よかった」

 彼は満足げに笑った。


「そういえば、よく入ったね。ネズミの方が、口より大きい気がするんだけど」

 ふと顔を上げて問うと、彼は今度は企み顔で笑っていた。

「彼らは、お互いを求めていたんだよ」

 彼の言い分は妙に納得できた。


 確かに、ボトルの中に入るのは何でもよかったのだろう。

 美しい花びら、輝く小石、雪の断片、誰かの涙、昨日の記憶、赤い目玉。

 何でもよかったのだ。

 けれど、彼は死んだネズミを詰めた。ボトルを求めるネズミの死を、見つけた。


 彼は好き勝手入れた訳ではないのだ。ネズミとボトルが出会うために、彼は詰めるという使命を果たしたまでだった。ネズミはボトルに入ってその死を完成させ、ボトルもまた、ネズミを取り込むことで美しさを増させた。

 お互いがお互いを完全体へと導いたのだった。


「流石だねぇ」

「対したことないよ。僕は詰めただけだ」

 彼は得意のすまし顔を見せ、いたずらに笑った。


 僕らは日が暮れるまで、完成した死を飽きることなく眺め、静かな祈りを捧げた。

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