第3話 そんなに気になりますか。

「…何か?」

 隣の女性にこちらを見上げられて、意識が戻ってきた。

 ガタンゴトンと一定のリズムで揺られ、吊革に体重をかけてしまう。


 終電近くでそんなに大きな路線でないから、人は疎らだ。

 車両には僕と彼女、そして後ろの方で寝入っているサラリーマンが一人いるだけだ。多分、彼女は人ごみを避けて乗っているのだろうと察する事が出来た。


「いいですよ。慣れてますから」

 狼狽えていると、苦笑気味に返された。栗色のロングヘアーが揺れて、甘い香りが嗅覚を擽る。今日初めて会った女性に対して、不躾な視線を投げてしまったことを反省し、軽く咳払いをした。

 景色が流れて行く。硝子が反射して、車内がはっきりと移っている。時折街灯が、線を描いて彼女の頬を横切っていった。


 彼女の左頬には、模様が刻まれていた。

 タトゥーや入れ墨で、インクを入れたような色ではなく、どす黒い深緑が肌の下から湧き出ているといった印象を受ける。


 白い肌に歪な曲線がとぐろを巻いていて、不気味にこちらの様子を窺っている。彼女の雰囲気が、春の陽射しのように柔らかであったから、余計に模様が浮き立って見えた。他の部位は、彼女の手の内にちゃんと収まり、彼女もそれを受け入れて一つになっているのに、模様だけが黒いとなって、自己主張していた。

 彼女と同化しきれていないのが、ありありとわかって眉をひそめる。


「そんなに気になりますか」

 苦笑の色を濃くして言われ、我に返った。

「い、いや……、すみません」

「いいですよ。皆そのようなものです」

 日本人の体質として、赤の他人の異質な部分を何秒も見るのは失礼だと、見て見ぬふりをするべきだと理解している。自分も何度もやってきた。街中で、駅で、図書館で。


 けれど彼女のその模様からは目が放せなった。放す事が出来なった。

 引力が生じているように、目が離せなかったのだ。

 彼女の白くて細い指が、頬をさする。当然ながら、曲線はじっとしたまま撫でられていた。


「子供の時からあったんです。生まれたときにはありませんでした。砂場遊びをしているときに、ユウ君から指をさされて、初めて気づいたんです」

「大変失礼な話になりますが、隠そうと思われないのですか?」

「そんなに目立ちますか?」

 彼女は不思議そうに曲線を行ったり来たりしている。桃色の整った爪が、ひどく妖艶だった。

「化粧では隠れません。うっすらと浮かび上がってくるのです。整形はする気にもなりません。気づく人は五分五分と言ったところなので、別にいいかなと」


 はと、気づいた。

 この電車に乗ってきて、彼女も座ることはしなかった。人が座っていない椅子に座ることはしなかった。

「それは……」

「別に、支障はありません。日に日に色が濃くなっていますが」

「……大丈夫なんでしょうか」

「わかりません。私はそういうものには、疎いのです」

 少し首を傾げてみせる彼女の動きは優雅で、それが余計にざらりとした違和感を誘った。


「何か心当たりは」

「次の夏に祖父が死んだくらいです」

「一度調べてみるべきでは」

「事例はないようです」

 大丈夫ですよ、と彼女は案外楽天的に言った。本人がそれでいいと言ったのならば、それでいいのだろう。赤の他人が首を突っ込むべきではない。しかも、今日電車で知り合った程度なのだ。とやかく言えた義理ではなかった。


 濃くなる、というのは気になるところだが、悪い物には見えない。何かの呪い跡かと最初こそ思ったが、まがまがしい、不吉、というより、気味が悪いと言ったほうが正しい気がする。不気味に自己を主張しているだけのようだ。

 僕も一般人で、そういったモノに詳しくはないのだが。


 速度がゆるくなってくる。彼女が鞄の肩ひもを掛け直した。

「では、私はここの駅なので」

「あ、はい。では」

 彼女は一礼して、降りて行った。

 歩き方も優雅で、とても美しかった。見惚れていると、彼女の歩いたところに黒いしみが出来ているのに気づいた。液体が零れた後のような染みだ。

 あ、と漏れた声と、ドアの閉まる音は同時だった。


 そのしみが何であったのか、その後彼女がどうなったのか、知る由もなかった。

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