第2話 嘘つきと私

 耳触りのいい嘘だと思った。


 誰を貶めるわけでもなく誰を傷つけるわけでもない。はたまた涙誘うエピソード付きの慰めの偽りなんかじゃなく、誰のためでもない嘘だった。


 それを嘘と言っていいのかはわからないが、けれど確かに私は騙されていた。

 貶める嘘なら警戒するし、傷つける嘘なら怯えてしまう、慰めなんて一蹴してやるのだけれど、そんな心配は一切無用だった。

 そして騙されるだけの価値があるように思えた。彼のつく嘘は魔法のようで、信じてさえいれば私は心穏やかに日々を過ごせるようにさえ思えた。


 人は私をおかしいと笑うかもしれない。もしかしたらそんな嘘をつく彼のことも。

 けれど私はそれで良かった。

 心から、彼の嘘を慕っていた。


「今日は涼しいね」

 初夏、衣替えが待ち遠しくなるほど暑い日が続いていた。雨が降ったわけでもない曇の日、少し過ごしやすい気温だった。彼は事もなげに言った。


「タブロの群れが泳いでるから」

「タブロって何?」

「魚。トビウオみたいな形をしている」

 それ以上、彼は何も言わなかった。もともと口数は少ないのだ。

 あたりを見回して、私はタブロを想像する。


 水に沈んだ公園周辺を私と彼は制服のまま歩いている。波に揺られて木々がざわめき、音のない鳥が囀る。目の前を悠々と泳いでいくのがタブロの群れだ。私たちのことなんて気づいてさえいない彼らは、尾鰭で私の頬を撫ぜた。右頬が、ひんやりとした感覚を得る。

「……ふーん」

 私もそれ以上、何も聞かなかった。

 タブロの尾鰭は冷たい、それだけで十分だった。


 ***


 彼が言っていることが嘘だというのはあらかじめ聞かされていた。

 長い付き合いで、いわゆる幼馴染である私と彼は幼い頃からそんな嘘を言っていた。

 本気で信じこんでいた小学生の私に、彼はさらりと言った。

「嘘だよ」

 至極当然そうに、真っ当なことを言われて私は呆けた。

「……ウソ、なの?」

「全部ウソだよ」


 天地がひっくり返った私は開いた口が塞がらず、しばらく彼とは口を利かなかった。

 拗ねていた自覚はある。あと本気にしていた自分が恥ずかしかったのもある。

 なにはともあれ、離れて初めて気づいたのは、彼は他の友人に一切そんな嘘をついていなかったことだった。


 自己主張はあまりしないが言わないといけないことははっきりと言う、小学生ながらにしっかりとしていると周りから評されていた。そんな彼の口からおとぎ話のような言葉が溢れてくるとは、思ってもみないようだった。

 彼の両親でさえ、彼の一面を知らなかった。


 翌朝、私は通学途中の彼を捕まえた。

「どうして嘘を言うの?」

 唇を尖らせた私に侘びも入れず、彼は遠い目をして空を仰いだ。つられて見た空は朝日に照らされた羊雲が遠くまで続いていた。


「……ユーモア」

 ぼそりと、声が聞こえる。

「え?」

「ユーモアがあった方が、人生は面白いから」

 その時ユーモアという言葉を知らなかった私は単に響きが気に入り、黙って後を付いて行った。それから今現在まで彼の嘘と共に来ているけれど、理由は阿呆くさくても、それで正解だったと思う。


 彼のおとぎ話にしては、取るに足らない洞話を、「ユーモア」と呼ぶかは別として、あの頃から変わらず飄々と言ってのける彼を面白いと思う。彼が言うからこそ意味のある嘘を、もうすでに気に入ってしまっていたのだ。

 嘘だと知っても変わらず、寧ろ騙されたいと思うのは、彼が凄腕の嘘吐きだからに違いない。


 彼が嘘だと明言した言葉達は、それでも彼が語れば本当でありそうな錯覚を運んでくる。

 街中のショーウィンドーから、硝子に移る見えない鳥を探す時、空を泳ぐ鯨の色を見極める時、耳を澄まして、風の声を聞いている時の、全てが本物だった。

 彼は、「ユーモア」だけでは体現できないほどの敬意を持って、存在しうる全てと接しているのだ。


 そんな姿を見ていると、彼にはそれらが見えているのかもしれないという期待を捨て切れなくなる。私が見ようとしていないだけで、目を凝らせば、タブロの鱗の色も見えるかもしれない。必死に耳を澄ませば、硝子の向こうにいる鳥の声も、聞こえるかもしれない。

 けれど、いくら見ようとしても、耳を澄ませても、シャボン玉のような薄い膜の壁を破ることはできなかった。


 ***


「お祭りがあるんだって」

 授業をサボった非常階段口で、私は言った。彼は、ステンドグラスでできた木の色を、目で追っていた。

「来週の土曜日」

「知ってる」

「なんだ、知ってたの」

「友達と約束した」

「……そうなんだ」


 風が吹き上げてきた。チカリと瞳に光が刺さる。

「友達と行くんじゃないのか」

「予定が合わなかったの」

 風はそのまま屋上へ駆け抜けていった。あと数日で、空に入道雲がやってくるだろう。

 今の風が、雷を連れてくるに違いない。


「……一緒に来るか?」

「えっ」

「たぶん大丈夫だと思う」

 階下で風になびく茶色い髪をじっと見た。

 彼はそれ以上何も言わなかった。


「浴衣持ってたんだ」

「親が買ってた」

 屋台が並ぶ道の手前、待ち合わせよりも数分前に着くと先に彼がいた。時計塔の下に二人並ぶ。

「何人で行くの?」

「4人」

 少し待って、その友人とやらが来た。同じクラスのお調子者Aと、水色の浴衣の似合う、やはり同じクラスの清楚系女子。どちらとも、あまり交流がなかった。


「おー珍しい子がいる‼浴衣似合うねー」

「……どうも」

 人のいい笑みで言われて、軽く会釈する。

「わっ、お前も浴衣かよ‼」

「悪いか」

「いや、妙に似合ってるのが悔しい‼」

「うん。似合ってるね」

 横で浴衣の彼女がほほ笑んでいる。彼はふいとそっぽを向いた。

「……どうも」

「うわー、愛想ねー」


 けらけらと笑うAが先頭、彼と浴衣の彼女が真ん中、私が最後尾で歩き始める。

 りんご飴、金魚すくい、はし巻き、射的、いか焼き、フランクフルト、くじ引き。

 人が溢れかえって、それらに群がる。

 Aは純粋に楽しんでいるようだった。綿菓子片手に、お面を買っている。彼女は始終笑っていて、かき氷を突いている。彼はずっと黙っていた。


 どれくらい屋台の中を歩いただろう。

 突然、彼女がバランスを崩した。

 驚いて、けれどとっさに伸ばした手は届かず、代わりに彼の手が伸びて、彼女を支える。

「あ、ありがとう」

 彼女は俯いて言った。足元に視線をやると、足首が赤く腫れていた。

 すと、彼が彼女の前に背を向けてしゃがんだ。


「えっ」

「それじゃ歩けないだろ。背負う」

「や、でも恥ずかしいし」

「A、帰るぞ」

 お前は下駄持ってやれ、という声に素直に従う。下駄を取るとき、しゃがんだ時に垣間見えた、彼女の足は、私よりずっと白くて細かった。


 確かに、背の高い彼が彼女を背負うと、否応なしに目を引いた。彼女の心配をしながら、来た道を引き返していく。

 Aは仕切りに残念がっていた。彼は相変わらず黙ったままだ。ちらりと見えた彼女の頬はりんご飴のように赤く染まっていた。


 そのまま待ち合わせていた場所で解散する。

 彼は彼女を送るらしく、二人と道を歩いていく。私は夜闇に紛れて三人を眺めた。

 私はりんご飴が、好きでなくなった。


 ***


 それから、やたらと彼女が、目に付くようになった。

 廊下で、職員室で、下駄箱で。

 いつも、彼がそばにいた。いつも、彼のそばで笑っていた。


 何だか彼に近づきにくくなって、会う回数が減った。

 彼の嘘が遠のく度に、世界はどんどんくすんでいく。

 急に誰もいない場所に行きたくなって、放課後の屋上に向かった。


 グラウンドの向こうへ沈む太陽は、広いコンクリートの上に座り込んだ私を、容赦なく突き刺しながら、嘲笑いを浮かべた。膝小僧に額を埋めるこれを、センチメンタルというのか。


 彼の周りには友達がいて、私の周りにも友達がいる。これまでそれぞれの友人に干渉はしてこなかったし、お互い会話すらなかった。

 それなのに彼女を見つけて、何故だか急に一人ぼっちになった。


 だって私と彼には嘘しかない。

 秘密の嘘を共有するだけの仲であり、それ以上でも以下でもない。誰よりも特別で、誰よりも脆い仲だ。


「彼女にも、嘘言ったのかなぁ……」

 私と違ってよく笑う彼女だから、喋りがいがあるだろう。迷子の夢喰いの事だって可愛らしいと喜ぶだろうし、草むらに眠るユタの事は寂しそうに微笑むだろう。

 私みたいな感想も言えない奴よりも、あの子の方がいいに決まっている。

 彼だって饒舌に語るだろう。私に話してこなかった話だって、彼女にはしていくのだろう。


 それならば、私はもう必要ない。

 彼が私といる理由は、ない。


 すっかり日も暮れて、途方にも暮れ飽きたので、帰るために立ち上がる。

 一瞬よろめいたが、転ばず立て直した時。

 ふわりと、吹き抜ける風が優しく頭を撫ぜた。


 体が凍る。

 世界が弾けた。


『風に住む民は親切なんだ』

『いつもすぐにどこかに行くが、いつでもこちらを見守っている』

 バと顔を上げたけれど、グラウンドの向こうに街明かりが見えるだけだ。

「...う、」

 視界が滲んだ。


 何もない。

 何もないけれど。

「いやだなぁ...」

 私はそれらを愛しすぎた。

「もっと聞きたいなぁ...」

 泣き始めた私の髪に、風はふわふわと漂い続けていた。


 ***


 いらない、なんて言って欲しくないな。

 だってここまで一緒に嘘と生きてきたんだもの。

 急に突き放されたって、戻れっこないわよ。

 風の民を見つけたみたいに少しずつ膜を破いていっても、あんたがいないと意味が無いわ。

 きっとガラスの鳥もタブロの群れも、色を失って死んでしまうもの。

 あんたの嘘じゃなきゃ、意味が無いわ。

 ユーモアの無い人生なんて、面白くもなんともないでしょ?


 ***


「お前、バカ正直だろ」

「……は?」

 いつもと変わらない気の抜けた目で、私を見て彼は言った。

「お前ほどバカ正直な人間なんて見たことない」

「え、急になんですか?」

 池の鯉が餌をねだっている。彼がバラりと撒くと、水面が騒がしくなる。


「何落ち込んでるんだ」

 キンと耳鳴りがした。

 目の前の鯉を凝視する。この状況を打破するには、どうしたらいいだろう。何でもないように言っている彼は、幸いにもまだ気づいていない。

「そ、そんなことないよ」

「バカ正直。バレバレだ」


 彼から逃げるように、岸の近くに座り込んだ。沸き上がる鯉の群れに、鴨が近寄ってくる。

 沖が煩くなるに連れ、岸は静かになっていく。

「アイツでも、もっと嘘をつくのが上手い」

「……浴衣の彼女ですか」

「何だそれ」

 グワッとひと鳴きして、鯉を押し退けて餌をつつく。

 ざばざばと、一層水面がわく。

「夏祭りの時からだ。どうかしたのか」

「……別に」


 急に自分が不機嫌になっていることに気づいて、持っていた餌を鴨の向こう側へ投げた。気づいた鴨はそちらへ寄っていくが、その前に鯉の腹が見えて、戦慄を覚える。


「Aなら彼女いないぞ」

 突然の言葉に眉が寄った。彼を見るけれど、鯉を見ていて表情は読めない。けれど、どうせ何時もの無表情だ。

「何でA」


「お前アイツが好きなんじゃないのか」

 あまりに的外れな言葉を吐いて、こちらを見るキョトンとした顔を、川に突き落とそうかと思った。そのまま大きな鯉を飲み込んでしまえばいいんだ。立派な錦鯉を、喉につまらせて間抜けな死に顔を見せればいい。

 溺死ならぬ鯉死。


「どう見ればそうなるの」

「最近よく二人でいるだろ」

「あれは、」

 たまたまチーム課題が一緒なだけで、別にいたくて一緒にいるわけではない。

 Aのことを考えている余裕なんてない。


「ふーん」

 話題を振ってきたにも関わらず、対して興味を示さない姿に頭痛がする。

 本気でおとしてやろうか。

「まぁ、気にしてくださってありがとうございます」

「いや別に」

 手元の餌がなくなった。袋を握りつぶして立ち上がる。

 鯉はまだ足りないと騒いでいるが、鞄を持って踵を返した。


「結局なんで落ち込んでんだ」

 無愛想な彼は、話足りないらしい。もう話題は終わったと、思ったのに。

「いやー……」

「とっとと吐け」

 砂利の音が響く。ひとつ息を吸い込んだ。


「あんたの嘘が聞けなくなるのは寂しいなーって」

 言って気恥ずかしさに襲われる。

 何だ。何を言っているんだ。

 見上げた彼はしばらく宙を見ていた。

「急にどうした」

 こちらが聞きたい。

「いやいや将来的にはさ...」

 言いよどむが彼は納得したようだ。


「そうか。お前、俺の嘘好きだもんな」

「……え、いや、は?」

「お前バカ正直だからな」

 言い返したくても、返す言葉が見つからない。ここで否定したら、まずいことくらいはわかる。


「だから、嘘の吐き甲斐がある」

 さらりと吐かれた言葉が届いた時、浴衣の彼女なんてどうでも良くなっていた。

 どうやら彼は、まだまだ私を騙すつもりでいるらしい。

 それならば喜んで享受しよう。例え今の言葉さえ嘘であっても、寧ろ嘘であるならこそ、私は騙されなければならない。それを望んでいるなら尚更。


 よかった。

 まだ、壊れていなかった。

 彼の嘘で作られた虹色に輝く橋は、まだ彼と繋いでいてくれた。


 急に頭を小突いできた彼に驚いて見上げると、何故か彼も機嫌が良さそうだ。

「どうしたの」

「や、別に」

 飄々と言う彼には、適うはずが無いのだ。

 車の走る音が近くなってくる。足が軽くなって、歩調が少し早くなる。このあと何処かに寄りたい。オーロラの飴細工の話が途中だった。


「でもAの話には驚いたわ」

「そうか?あれでいい奴だぞ」

「ダメよ。だって私、嘘つきが好きだもの」

 ふふふと笑うと、後ろから風が駆け抜けていく。ちらりと振り返ると、澄ました顔が赤く染まっていた。

「……知ってる」

「あらほんと?」

「お前、バカ正直だから」


 思わず風の民に微笑んだ。

 どうぞこれからも、よろしく。

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